東京大空襲 | マック J&B blog

東京大空襲

3月10日は東京大空襲の日。今から61年前。

我が家は家族に被害はなかったものの布団の一枚も持ち出せず家

工場も全焼、馬車で24時間もかけて足利の奥の飛駒村へ疎開

したのでした。

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以下、記録からの引用です。

昭和20年3月9日22:30分、警戒警報発令、二機のB29が

東京上空に飛来して房総沖に退去したと見せかけ、都民が安心

した10日00:08分に第一弾が投下された。東部軍管区司令部

はまだ気付いておらず、当然ながら空襲警報も鳴らない。


00:15空襲警報発令、それから約二時間半にわたって波状絨毯

爆撃が行われた。

各機平均6トン以上の焼夷弾を搭載した344機のB29の大群が、

房総半島沖合から単機または数機に分散して低高度で東京の下町

に浸入した。


都民の虚をついて来襲したB29の大編隊は、低空からアルミの

細片をばら撒いて日本軍の電波探知機を無能にし、機体を捉えた

サーチライトには機銃掃射を浴びせかけた。


B29の先発部隊が江東区・墨田区・台東区にまたがる40k㎡

の周囲にナパーム製高性能焼夷弾を投下して火の壁を作り、住民

猛火の中に閉じ込めて退路を断った。


その後から約100万発(2,000トン)もの油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾

エレクトロン(高温・発火式)焼夷弾が投下され、逃げ惑う市

のは超低空のB-29から機銃掃射が浴びせられた。


折から風速30mの強風が吹き荒れて火勢を一層激しいものにし、火の

ような火の粉が舞い踊り、強風に捲かれた炎が川面を舐めるよう

に駆け抜け、直接戦争とは関係の無い一般市民は次第に狭まってくる

火の壁の中を逃げまどいながら、性別も判らないような一塊の炭と化す

まで焼き尽くされた。




本土空襲の指揮を取っていたカーチス・E・ルメイ将軍は、明かに非戦闘

狙ったする批判に対して、戦後の回想記のなかで次の様に述べて

いる。


「私は日本の民間人を殺したのではない。日本の軍需工場を破壊

していたのだ。

日本の都市の民家は全て軍需工場だった。ある家がボルトを作り、

隣の家がナットを作り、向かいの家がワッシャを作っていた。木と紙

でできた民家の一軒一軒が、全て我々を攻撃する武器の工場にな

っていたのだ。これをやっつけて何が悪いのか…。」


このカーチス・E・ルメイ将軍は、グアム島在米爆撃隊司令として、

広島・長崎に投下された原子爆弾にも深く係っていた。


昭和39年、日本政府は「日本の航空自衛隊の育成に協力した」との

理由から、カーチス・E・ルメイ将軍に対して勲一等旭日大綬章を贈っ

ている。


時の総理大臣は、後にノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作だった。