「積小為大(せきしょういだい)」
(小を積みて大と為す)
二宮尊徳(金次郎)

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今日は、二宮金治郎こと二宮尊徳226回目の誕生日。

積小為大は尊徳の代名詞的な言葉で、小さな事の積み重ねが、
結果的に大きな事を成す。

また、小さなことを務められない人には大きな事は成す事が
できないという戒めもこもっています。


相模国足柄上郡栢山村(現在の神奈川県小田原市栢山(かやま))
に百姓・利右衛門の長男として生まれる。当時の栢山村は小田原
藩領であった。金治郎が5歳の時の寛政3年(1791年)8月5日、
南関東を襲った暴風で付近を流れる酒匂川の坂口の堤が決壊し、
金次郎の住む東栢山一帯が濁流に押し流されてしまった。その
影響で田畑は砂礫と化し、父・利右衛門の田畑も流失した。

14歳で父・利右衛門が死去、2年後には母・よしも亡くなり、
尊徳は伯父・二宮万兵衛の家に身を寄せることとなった。伯父の
家で農業に励むかたわら、荒地を復興させ、また僅かに残った
田畑を小作に出すなどして収入の増加を図り、20歳で生家の
再興に成功する。この頃までに、身長が6尺(約180センチ強)
を超えていたという伝承もある。 また体重は94kgあったと言わ
れている。

生家の再興に成功すると尊徳は地主経営を行いながら自身は
小田原に出て、武家奉公人としても働いた。奉公先の小田原藩
家老・服部家でその才を買われて服部家の財政建て直しを頼まれ、
見事に成功させて小田原藩内で名前が知られるようになる。
その才能を見込まれて、小田原藩主・大久保家の分家であった
旗本・宇津家の知行所であった下野国桜町領(栃木県旧二宮町
周辺(現在の真岡市)、なお同町の町名の由来は二宮尊徳である)
の仕法を任せられる。後に東郷陣屋(同じく真岡市)にあって
天領(真岡代官領)の経営を行い成果を上げる。その方法は報徳
仕法として他の範となる。その後、日光山領の仕法を行う。

安政3年(1856年)下野国今市村(現在の栃木県日光市)の報徳
役所にて没。戒名は,誠明院巧譽報徳中正居士。明治24年(1891年)
11月16日に従四位が追贈されている。
(出典:ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%AE%AE%E5%B0%8A%E5%BE%B3 )

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