お蔭さまをもちまして、湯河原から熱海までの都合6km峠越えを
完遂いたしました。

このキャノンボールのゴールは、もちろん熱海サンビーチですが、
サンビーチといえばお宮の松がある場所としても有名で、では一
体どちらが有名かといえば、じつはお宮の松の方が有名でしょう。

お宮の松
▲右側の木が「お宮の松」

ところで、このお宮の松というのは2代目の木だというのをご存
知でしょうか。お宮の松ストーリーのはじまりです。

「お宮の松は、尾崎紅葉の小説「金色夜叉」に由来し、命名された
ものです。この松は、江戸時代前期(1645年頃)、知恵伊豆と
呼ばれた老中松平伊豆守信綱が伊豆を巡視した際に植えさせた松
の一本といわれております。この松は、その姿が美しかったこと
から、「羽衣の松」とも呼ばれていました。

明治30年(1897年)から読売新聞に連載された「金色夜叉」に
より、熱海海岸の場が登場したことから人気を集め、また、演歌
師のつくった「金色夜叉の歌」が流行し、熱海温泉の名は一躍脚
光を浴び、天下の熱海温泉を不動としたものです。このことから、
大正8年(1919年)熱海に別荘を持っていた『煙草王』村井吉
兵衛や土地の融資によって、横磯に「金色夜叉の碑」が建立され
ました。

この碑には、紅葉の門人であった小栗風葉の句「宮に似たうしろ
姿や春の月」が刻まれ、羽衣の松のかたわらに建てられたことか
ら、いつしか「お宮の松」と呼ばれ、熱海の新しい名所となりま
した。

また、この碑も女性的な感じから川端康成は、「石そのものも可
憐な女の後姿に似た記念碑」と認めています。

昭和24年(1949年)、キティ台風により道路が崩壊されたこ
とにより道路の拡幅が行われ、海側に伸びた大枝が切られ、また、
観光地としての発展に伴い、自動車の排気ガス等によりとうとう
「お宮の松」は枯れだしました。(初代「お宮の松」の樹齢はおよ
そ300年で、現在のつるやホテル前の歩道から海に向かって約
2メートルの場所にありました)。市では、市民皆さまの協力を
得て、二代目「お宮の松」の選定を始めました。

その結果、五十数本の候補から、熱海ホテルにあったクロマツを
「お宮の松」に選定し、国際興業の社主であった小佐野賢治氏よ
り寄贈を受け、小田原市の本多大四郎氏の所有する松を添松とし
山種証券の山崎種二氏等の寄附並びに市内関連団体の多大なご協
力により、昭和41年(1966年)現在の場所に二代目「お宮の
松」として完成したものです。

「お宮の松」の樹齢は、平成13年(2001年)現在でおよそ95
年、添松はおよそ75年になります。」

「お宮の松」の傍らにある熱海市の案内を読むと、お宮の松の由
来としてこのような解説があります。

この解説を読むと、そもそもの起源が小説だとしても、その後の
経緯はとても人為的で、今となっては、木も変わっているし場所も
変わっているしで、思わず笑ってしまいます。

でも、観光が主たる産業の温泉街としては、このくらい話題先行
の集客ツールがあった方がちょうど良いくらいで、商売としては
このくらいのバランス感覚が大切という良い見本かもしれません。

と考えると、不景気に苦しんでいる日本の民間国内産業の多くは、
熱海の非営利団体である行政に学んだ方が商売が上手くなるので
はないかとすら思いました(笑)。

私は、違うポイントがとても勉強になりましたよ。

感謝!