久しぶりの世界遺産は、英国が誇るロンドン塔。

ロンドン塔

良くも悪くも、ロンドンと英国王室の象徴のような建物です。

お恥ずかしながら、私はほとんど知見を持ち合わせておりませんので、
以下は当地のご案内を引用しましょう。

「1075年から1079年の間に建造が開始されたウィリアム征服王の石造
の塔(tower)はきわめて印象的だったため、城は今でもロンドン塔(the
Tower)と呼ばれている。ロンドン市民を支配し、侵略者を阻止するた
めに、王は、古代ローマ時代のロンドン市の南東に位置するテムズ川
河岸に要塞を築いた。

1238年から1240年にかけて、ヘンリー三世はローマ時代のロンドン市
の境界を越えて城を拡張し、新しい防壁で城を取り囲んで、ノルマン
時代の塔(ホワイト・タワー)を漆喰で白塗りした。王はまた、壮大な
西側入口部分を築いたが、不運なことに、これは翌年崩れ落ちてしまっ
た。

1841年10月31日の未明、グランド・ストアハウスで火災が発生し、建
物は全焼した。民衆は火炎に包まれた17世紀の巨大な建物が崩壊する
のを見つめ、画家たちはその光景を筆で描いた。

ロンドン塔

ロンドン塔は、難事に直面した国王達の避難所として使われることが
多かった。ヘンリー三世も例外ではなく、王は1238年にここに逃げ込
んだが、城の時代遅れの防備に恐怖を覚え、強大な門口を築いて防備を
強化するよう命じた。

1281年目までに、エドワード一世は父王ヘンリー三世の時代のものに
代えて、さらに高度な防備力を備えた新しい濠と入口部分を築いてい
た。王はヘンリー三世の外側防壁を別の幕壁で取り囲み、こうして同
心円状のロンドン塔が誕生した。

18世紀になる頃には、城の眺めは非常に違ったものになっていた。塔
は煉瓦で増築されて高さが増し、砲台が追加されて大砲が置かれた。
住居、倉庫、仕事場の屋根は、外側防壁を越える景色を見渡すように
なった。」

ロンドン塔

さて、英国に上陸した時の第一印象は「外国らしくないな」という
ものでした。

というのも、これまで訪れてきたシンガポール、エジプト、モロッ
コ、イタリア、スイス、フランスの各国は、そのどれもが異文化の
香りを漂わせていて、いわゆる異国情緒を感じたものですが、英国
に限ってはその異国情緒が非常に薄いのです。

そこにもってきて先進国だし、言語は英語だから、これはイージー
に過ごせて快適だな、と思ったのはとんでもない間違いだと知るの
に時間は掛かりませんでした。

スコットランドのある地方に行ったときには、レンタカーはおろか
タクシーまで予約制で、予約がなければ移動できません。その瞬間
移動の足がなくなって、もうその時点で英語どころではありません
でした。

電気のコンセントは、ヨーロッパの丸棒が2本出ている型とは違い、
日本と同じ角棒がそれも3本出ている三又形状で、しかもいちいち
コンセントにスイッチがついているので、プラグを挿しただけでは
通電しません。

インターネット?

もちろんありますが、有料のところだと大体20分で1ポンド(これ
は後になってアメリカの方がよっぽど高いということが判明するの
ですが)もするので、メールをいくつか送ったら「はい、300円」
という感じです。

これらが彼らの合理性です。もちろんこちらはただの旅行者だから
郷に入ったら郷に従うのですが、いちいち勝手が違いすぎて呆気に
とられたり、途方に暮れることがしばしばありました。

そういうあれやこれやに慣れてきたころ、ロンドンに着いたときの
印象では、まるで東京と同じではないか、と感じました。

街のスケール感、どちらかといえば規則正しく画一的な人々の行動、
左側通行の自動車、大人しく猫背のシニアに、エネルギーの向けど
ころが見出せずつるんで大声を出す若者。

タクシーを待っているときに、ロンドンに住むという若くて聡明な
女の子と色々とおしゃべりをしましたが、極西の島国にあってEU
加盟国でありながら統一通貨を採用せずポンド高を維持する政策。
これが、社会のあちこちで歪みをもたらしているそうです。

重工業による立国がそのサイクルのピークを経過したときの不況と
いうのは、手に技術を持った労働者が大量に解雇され、彼らには他
の仕事ができない(と思っている)ので、失業率が高止まりして改善
せず社会構造の改善や変化もなかなか進まないものです。

一方、通貨価値は既に重工業時代の評価によって高まっているため、
そこに莫大な価値を見つける移民が流入して、人手不足の産業を下
支えする役割を果たすようになります。

こういった条件の下で自国の経済成長と対外的な貿易バランスを求
められる政府は、金融の強化を模索します。

しかしながら、この金融の強化と自国の市場を閉鎖的に維持すると
いうのは、いわゆる無理な話で、金融とはすなわち政府が信用を供
与して利便性を提供するのですから、その状態で実態のある市場が
伴っていなければ、金融だけ肥大化して貨幣を使うところがないと
いう状態、そうそれはバブルです。

21世紀に入って、コンピュータネットワークで通貨が瞬時に国際
移動をする技術が普及するときに、こういう政策は採りたくても採
れない。これは労働市場も含めてのことです。もしとったら金融恐
慌の発信源を作ってしまうので、国際的な地位低下と供に、その国
の通貨(と国債)は暴落するでしょう。

ですから、金融の強化というのは同時に自国市場の自由化がセット
になっていなければ、国内の景気上昇を構造的に作り出すことがで
きないのです。

それをもし自国民が嫌がるのであれば、スイスのように世界最高の
品質をもつ商品やサービスを、世界から常に認められる形で諸外国
に提供し続ける地位(国際的に受け入れられることが条件)を獲得し
なければなりません。

この覚悟がないならば、市場を自由化して国際競争にもまれるしか
方法がない二者択一です。

”何事も控えめをもって善しとする”英国を眺めていると、自国の
歴史と伝統による、最適化と妥協が進みすぎた社会構造と、過去の
プレゼンスの経緯から施策を思い切って変更できない硬直さとが、
相対的に縮小していく市場規模のなかで、自国民に忍耐を求めて圧
し掛かってる構造、または、もうすっかり熱源が弱くなってしまっ
たぬるま湯に浸かっている構造が見て取れます。

一言で言ってしまえば元気がないということですが、昼間から賑わっ
ているというパブでは、人々は諦めたようにビールを飲み、仲間と
おしゃべりすることに希望を見出しているように見えました。ちな
みに、パブで非積極的的にビールを消費してもGDPに計上される
ことを忘れてはいけません。

似たような構造は、極東の島国にいっても見られるのではないかと
思うのです。その断片をハゲタカのようなドラマが切り取ってみせ
ている。

かつて英国病といわれた英国の社会構造は、20年経っても大きく
変わってはいないのではなかろうか。

もし日本が英国に似ていて、この状況を好ましくないと思うのであ
れば、日本人には以下の3つの選択肢があります。


1.世界最高の商品と(金融を含めた)サービスを作り出し続け、世
界中に認めてもらう。分かりやすくいえば、ギネスブック総ナメを
目指す方向。

2.世界中の各国から安い労働力を受け入れて、人手不足の産業に
あてがい外国人とワークシェアをする。分かりやすくいえば街には
異文化(と異言語)の人々が溢れ「あうんの呼吸」は通用しなくなる。

3.世界貧困国の通貨水準に円を下げ、日本人だけで構成する世界
の工場となって全世界的に安い商品を提供する。もちろん私たちの
生活水準は世界最低レベルになる(外国から物を買えないので、食
料供給が大問題になるところからスタートする)。


もちろん、上記の3点は極論です。でも、理論的な方向性としては
3つしかないことも成立してしまいます。

だから、どれを目指すのかを決めなくてはならない。

どれがいいか考えるときには、心と眼を開いて冷静にならなくては
ならない。

英国に似た変われない病が、日本の近未来像でないことを祈ってい
ます。

ロンドン塔

ロンドンにて。

感謝!