阿弥陀仏は私たちに貪瞋痴の三毒があるので、清浄、歓喜、智慧の三光を修め、三光によって三毒を治めるようになりました。だから浄土の法門は私たちのために作られた法門なのです。浄土も阿弥陀仏も、この三種ないし十二種の光明を満たし、放射し続けています。
阿弥陀仏を信じ、「南無阿弥陀仏」と称念する人は、仏の光に守られて生きており、心は決して暗くはありません。自分の心が暗くなっていることに気づくと、念仏を唱えると明るくなって、仏と浄土の光をつなぐことができます。
「痴」は一般的には無明、より具体的には我執といいます。子どもには、「自分が一番正しくて偉い」と思う心、それが「チ」です。
自分が正しいと思って、他人の賛美を得てとてもうれしくて、「貪」です;他人が自分が間違っていると怒るのは、「嗔」ということです。
もともと正しいことは正しい、間違っていることは間違っていて、人がいいとか悪いとかでは変わらないのに、自分が偉いから自分の考えが一番正しいと思っています。単純な事実に、立派な「我」がつくことで、「痴」がつくのです。自分に賛同してもらえるのがうれしい、認めてくれる人が多ければ多いほどいいと思うのは「貪」です。人が自分を認めてくれないから怒るのは、「嗔」です。
自分は正しいのに、人が賛成してくれないからといって怒るのであれば、いくら自分が正しくても怒るのは正しくありません。自分が正しいから怒るのは、「嗔」です。自分の誤りを認めないで怒るのは、「痴」でも「瞋」でもあります。
だから貪瞋痴は人の生命の中の3つの問題で、人は生きている限り避けられません。仏は「三毒」といって、これを飲むと輪廻に苦しむ毒だといいます。しかし、この三組の毒薬は、私たちは、昔からずっと、一生のあいだ、飲みつづけてきたのです。三つの毒の中でも、「自分が一番正しくて偉いと思う」心が一番の問題です。「痴」の中から、「貪」と「瞋」が生まれます。だから「痴」は三毒の根なんです。
貪瞋痴が三毒だというのはすごいことです。仏の前にも後にも、誰もそんなことを言っていないのですから、これは仏の大智慧が見た真実なのです。それだけでも立派なことですが、それよりももっと立派なのは、仏様が我々が毒を飲んでいることを知っているだけでなく、知っている薬を出して、じきに来てくれたことです。病の重さによって薬の処方も異なりますが、その中でも浄土法門は我々に最も適した薬です。
阿弥陀仏とはどんな仏様でしょうか。阿弥陀仏は我々の貪瞋痴を完治するために成仏されたのです。阿弥陀仏の成仏後の名号は、「南無阿弥陀仏」のほかに「十二光仏」とも呼ばれ、阿弥陀仏の光明に十二の働きがあることを教えています。十二光にはそれぞれ意味があって、「清浄光」、「歓喜光」、「智慧光」の三つがあります。「清浄光」は「貪」を治め、貪らない心が最も清浄で、阿弥陀仏の心は無私無我であるから、最も清浄で、しかも私たちを感化してこのような心になります。「歓喜光」は「瞋」を治して、阿弥陀仏は私達に人生の中で最も良い贈り物を得させます——往生して成仏して、このような贈り物を得て本当の喜びが満足して、何も満足しなくて、すぐ怒りにくくなりました;「智慧光」は「痴」を治し、仏の智慧は私たちの愚痴を治し、私たちの世界を自分だけではなく、すべての人が入るように広くし、自分も幸せになり、すべての人と幸せを分かち合うようにしてくれるのです。
(師匠蒙光4.13開示 )