卑弥呼はようやく話を変えた。

「あそこで何をしているの?」
「開墾地を広げてるんだ。父が始めたんだが、戦場へ出たきりなもんだから、オレが指揮してやってるのさ」
「あなたの御家族は多勢?」
「母が死んで、父とオレと、あとは腹違いの弟や妹が五人いるよ」
「いいわね」
「卑弥呼は?」
「私は私だけよ……一人」
「そうか」
伊太加はそう言うと、黙り込んだ。そして四、五歩進んで言葉を継いだ。
「……兄妹と言ったって、うちのはまだ上が十にもならない子供たちさ」
「お嫁さんはいないんでしょ?」
「誰の?」
「伊太加のよ」
伊太加が笑って首を振った。
「……そんなもの」
「いるの?いないの?」
「いないよ」
卑弥呼は伊太加の掌をきつく握り締めた。どんな女にもこの伊太加を奪われたくない、と思った。

森がいくらかまばらに透けて下りの斜面になった。土地が浅くえぐられて幅の広い耕地になっている。
小川が幾筋にも別れてチカチカと光りながら、遠くまで見渡せ、ちょうど河原に砂洲が張り出して流れを細かく分けているようだった。
その最初の流れに差し掛かると、伊太加は卑弥呼の手を取り、そのまま五つ六つの飛石づたいに先に立った。
その流れの真ん中で二人の手が切れた。
……あっ、と卑弥呼が声をあげたかと思うと、苔のついた丸石の上で突っ立ち、両手を上げて落ちそうになった。
伊太加が流れに片足を踏み込んで卑弥呼をまたもや片手で横抱きにした。
そのまま対岸へと渡ったが、すぐ先にも岸を噛む流れが音を立てている。
まだその先にも二つ三つあるのだ、と伊太加が言った。
卑弥呼は、こんな時はいつもおぶってもらうのだ、と甘えて言った。

伊太加は卑弥呼をおぶって次々と渓流を渡って言った。
卑弥呼は伊太加の背にしがみついたまま、はしゃいで笑い声を立てながら、
「私、どこかできっと逢えると思っていたの」
そして伊太加の耳に囁いた。
「いつもこうして逢えたらいいのに」
伊太加が答えた。
「卑弥呼は軽いな。まだ子供だな」
「下ろして!」
卑弥呼は叫んだが、伊太加はなお卑弥呼をおぶったまま、落ち着いた足どりで小川を渡って行った。
そして渡りきると、卑弥呼は身をよじって伊太加の背中からずり下り、そのまま尻餅をついてしまった。
しかし、ちょうどそこに座りたかったんだと言わんばかりに、そのまま石の上に座り直した。
「少し休みましょうよ」
子供、と言われて癇にさわったのだ。しかし伊太加は何もいわず、少し離れた風倒木に腰を下ろした。
「こっちへ来て」
卑弥呼が言うと、
「そこは日なたで暑いだろ?」
伊太加が笑った。
「水のしぶきがかかるし、風があっていい気持ちよ」
「それなら、あっちがいい」
伊太加は卑弥呼の手を取って引き起こすと、登り斜面になった森の中へ、卑弥呼を後ろから押し込むように先立てた。
そして木の根の組み合った凹みに枯れ葉が厚く吹き溜まった場所を掌で平らにならすと、二人で腰を下ろした。

卑弥呼は、伊太加に肩を寄せた。ふと何故か悲しくなった。伊太加が自分なんか愛していない気がしたからだ。
「卑弥呼」
その時、伊太加が囁いた。
伊太加の息が首筋にかかる。そこから足の爪先まで戦慄が走った。耳までほてった。
伊太加はそっと足元の枯れ枝を拾い、卑弥呼の視線を横へと導いた。
間もなく<神の矢>宣伝隊はこの場を立ち去った。
伊太加は卑弥呼の肩を抱き、後について送りに出ていた。

道はまた森に入った。
卑弥呼は前に回っては伊太加を眺め、そして取り留めもなく喋り続けていた。
「あれから何年経った?あの時よ、あの阿蘇山の噴火の事。私が八つの春だったから、九つ…十……」
卑弥呼は自分の指を折って数えてみた。
「…そして今は秋、ああ、五年半も経ってるわ!それなのに、私はあなたを一目見た時、飛び上がってしまったわ……でも、何故?」
卑弥呼は自問自答するように、
「きっと、あなたの事を忘れたことがないからだわ。あなたも、私が分かって?」
「分かった」
「でも、すぐにじゃないわね?」
と、伊太加を見上げた。伊太加が卑弥呼の肩を抱き寄せた。
「正直言うと、すぐにはわからなかった。だって、あの踊り子たちはみな奴隷娘だろ?卑弥呼に似てるとは思ったが、オレの知ってるあの時の女の子は、確か、氏族長か何かの娘だと思っていたから」
「氏族長の娘ですって?」
卑弥呼が肩に置かれた伊太加の指を引っ張った。
「伊太加」
「何だ?」
「聖地で一番豪いのは誰だか知ってる?」
「女王か?」
「私は、その女王の娘よ」
伊太加が驚いて卑弥呼の顔を覗き込んだ。卑弥呼は得意げにニタニタと笑った。

二人の歩みが遅くなった。
「あれから、聖地へは来なかったの?」
「二度行った」
「どうして私を訪ねてくれなかったの?」
「それは無理だ。訪ねるったって、オレはまだ子供だったし、ヒミコという名前しか分からないし、それにお前が男ならともかく……」
言いながら、伊太加が笑った。
「まだ、娘を訪ねるような年でもなかったしな」
「今なら?」
伊太加がさらに笑い出した。
「今度は訪ねるさ。卑弥呼がどんな娘になったかってね」
「今は?私を見てガッカリした?」
伊太加が首を横に振った。そして卑弥呼の顔を覗き込みながら、
「オレはたまげた。だって、卑弥呼はあの洞穴で灰をかぶって泣いてばかりいたんだ。顔は、白と黒のぶちになってて、まるでムジナだった」
「そうね」
卑弥呼が悲しげな顔をした。
「びっくりしたのは同じでも、私は違うわ。あなたは、私が思っていたより百倍も素敵になっていた」

風が枯葉を巻き上げ、渦巻きとなって二人目掛けて突進してきた。
伊太加は卑弥呼を軽く片手で抱くなり横へ跳んだ。
卑弥呼が一層深刻な顔をした。
「あれから、どんなに私が泣いたか話したかしら?」
卑弥呼はその頃を思い出し、今にも涙の噴き出しそうな目で、伊太加を見上げた。
「私があの洞穴で助けられた時、あなたはどこへ行ったの?なぜいなかったの?あなたがどうしたのか心配で、どこかで怪我でもしたんじゃないかと、本当に心配したのよ。お礼だって言っていないのに。そして一年……いえ、もっとよ、私毎日泣いてばかりいたわ」

伊太加の説明によれば、あの日洞穴へ戻ると、卑弥呼の姿はなかったが、洞穴に残っていたたくさんの足跡から、卑弥呼が助けられたことを知ったようだった。
その日はそのまま一人洞穴で眠り、翌日、山を下って人々に道を尋ねながら聖地へと戻ったのだった。
血眼になって自分を捜していた父親に、心配のあまり二つ三つ殴られているうちに、卑弥呼のことは言いそびれてしまい、そのまま父親と郷里へ帰った。
なにしろ、自分の家が阿蘇火山の麓だったからなのだ、と。

卑弥呼は伊太加の肘を掴んだ。
「……大変だったのね」
「まあね」
「それで…今度はいつ聖地へ来るの?」
「さあ、今は戦争中だからね」
「なかなか来られない?」
「来年早々、オレも戦線へ出るだろう。その時聖地へ行くかも知れない」
「その時は……」
卑弥呼はまた伊太加の前に立ちふさがった。
「きっと逢いに来てくれるわね?」
伊太加がうなずいた。
卑弥呼が十三歳の秋。
その前年から倭の国々は大乱の渦中にあり、邪馬台国でも、女王の発案で<神の矢>献納運動が始まった。
今は国をあげての軍事力の強化が急がれており、それに対応する為の試みの一つだった。

まず、鋏には銅、鉄、黒曜石、矢羽根にはタカなどの大鳥の尾根、矢柄も選りすぐった篠竹といった良材を国内全氏族から邪馬台山に献上させるのだ。
そして聖なる山上で矢に仕上げられると、大呪術者老女王の神秘な呪文によって<神の矢>となった。
聖地を守護する八百よろずの精霊が、今こそ、この<神の矢>に恐ろしい魔力を授けたことに疑問はない。
こうしてそれらはまた各氏族に変換下賜される。
これを国ぐるみ一致の運動として行い、邪馬台国を構成する五部族同盟の団結強化、さらには戦意昴揚にも貢献しようと目論まれたのは無論の事である。

また、邪馬台山から、神官団と歌舞団の娘たちが幾隊か各地へ編成派遣された。
<神の矢>の材料募集、その運動宣伝の為だった。

卑弥呼も、その一隊に参加した。
まだ少女だったとは言え、女王直系の一人娘であり、いわば女王の分身と思われている卑弥呼は、至る所で手厚く歓迎された。

晴れ渡った秋の一日だった。
卑弥呼たちは各地の部族、氏族の中心集落で泊りを重ね、東方遥かな辺境を巡行していた。
昼過ぎて深い森を抜けると、空の明るく拓けた谷川沿いの開墾地へ出た。
対岸の斜面は広々としてなだらかで、すでにあらかた焼畑になっているようだ。
伐り出された材木が川岸一帯に浮かび、白々と泡立っていた。
また斜面の中腹には、二棟の切妻屋根の穀倉が建設中だった。
一棟はほぼ出来上がっており、もう一棟はまだ骨組みだけのようで、その辺りに特に男女が群れて働いていた。
丸太を焼き切り、鋸で裂き、石斧で削ったり磨いたりしているのだろう。風で埃りが舞い立つ所では屋根藁を束ねているらしい。
遠くでは森の伐採が続いているのか、木に石斧を打ち当てる音も聞こえてくる。

およそ男女百人もいただろうか。誰もが高らかに歌っている。
その労働の歌声とざわめきは更に繰り返されるコダマと重なり、響き合い、谷間を満たして壮重に轟いていた。

卑弥呼ら一行はここで一休みすることにした。
予定地ではなかったが、こんな大きな開墾地があることなど誰も知らなかったのだ。

卑弥呼ら一行を見た人々が、物珍しがって集まり始めていた。
仮小屋から、穀倉の周りから、焼畑から、間の谷川を蹴ちらしながら、一行のいる対岸の崖を上がってきた。
また、斜面の上の森の中からは、四、五十人もの武装した戦士たちが駆け下ってきた。恐らく開墾地の護衛部隊なのだろう。
彼らは歓呼の叫びをあげて娘たちを取り巻いた。

もてなしの食物などが人々から振る舞われた。
こちらも早速、そのお礼にと、いつもやる歌と踊りを披露した。
卑弥呼は上気して頬を赤く染め、先頭に立った。
卑弥呼は歌が上手く、踊りもずば抜けている。
率直で、身分を鼻にかけないので、仲間たちから愛されていた。
まず卑弥呼が踊り出しながら歌った。そしてやがて娘たちの合唱となっていく。
卑弥呼は少女らしい黄色い声を張り上げた。



戦いに
君は征く

頬つたう
わが涙

押し当てし
矢筒 負い

今日も 君
いずこ征く



踊りがたけなわになると、部落の者たちを踊りの環の中に巻き込むのが例だ。
卑弥呼は小刻みな爪先立ちで踊りながら、楯を並べて烈しく打ち鳴らし、手拍子足拍子で大はしゃぎに揺れ返る戦士の列へと進んで行った。
そして、その前列中央に立つ背の高い青年に自分の掌を差し延べた。
青年がその卑弥呼の指先を掴む。目が合った。

卑弥呼の目から火花が飛んだ。
(伊太加!)
ああ、まさしくあの伊太加に違いない!

伊太加は肩にかけた大きな弓を仲間に投げ渡すと、少女のか細い体にかぶさるように前へ進み出た。
二人は腕を堅く組み、互いに顔を差し覗いた。髪が触れ合い、息が耳に聞こえた。
環になって手を繋いだ。
環が切れても入り乱れても、二人はもう離れなかった。