卑弥呼、十五歳の夏。
旧王宮の裏手にある森の涼しい木立の中で、卑弥呼は麻布を織っていた。
日盛りの真昼ではあるが、日光はそこでは淡い斑点となって散らばっている。
卑弥呼は、低く這った木の枝に縦糸を掛け連ねた板を結び付け、その縦糸の間に右へ左へと交互に針を通しながら織手を進めていた。
朝からそこに座ったきりの卑弥呼は、一度やり出すと一心不乱になるたちだ。
女奴隷の由から織り方を習い、この春から夜が明けるとここに来た。
麻の平織地が出来上がると、それは残らず軍服地になった。
大乱は三年目に突入し、ますます激しさを増していた。
全ての氏族の女たちは、こうやって自氏族の戦士たちの為に軍服を織っていた。
卑弥呼も日が暮れるまで織り方を続けていた。
そんなある日の昼近く、卑弥呼は自分の横に犬がいるのに気付き、驚いて声を上げた。
犬はすぐに森の奥へ駆け込んで見えなくなったが、森の奥から鋭い口笛が聞こえ、犬がその口笛の主を追うように、森を横に駆け抜けて行く気配がした。
犬が駆け抜けるのに合わせるように、リ、リンと鈴の音が聞こえた気がした。
卑弥呼は心臓の高鳴りを押さえながら、耳を澄ました。
その鈴の音色は特殊なものだ。
皮紐で手首に巻いて踊る時、いつも鳴らす自分の鈴の音に似ていた。
……女王にもらった金の鈴。
とすれば、あの伊太加の犬が来たのではないか?
しかし、鈴の音はそれきり聞こえなくなり、犬を連れた飼い主も庭から姿を消してしまったようだった。
卑弥呼は大声で、女奴隷の由を呼んだ。
由が駆けて来た。
「今、誰か来ていたの?」
卑弥呼が尋ねると、由が拍子抜けしたように答えた。
「黄蜂の兄弟が来ておりましたが」
由の声は小さい。焦れったそうに卑弥呼が矢継ぎ早に言った。
「犬を連れていた?」
「はい」
「どんな犬?」
「それが、その、犬がどうかなさいましたか?」
「いいから、どんな犬なの?」
「その、なんだか怖い犬で、食物をやろうとしても手に食いつきそうにするんです」
「体に縞のある犬?」
「はい」
「あるのね?」
「黒い輪になって…確か尾の先まで」
「黄蜂の兄弟ってどんな男?」
「……」
「雲突くような大男?」
由がうなずいた。そして赤くなった。
卑弥呼はその理由に思い当たることがあったが、今はどうでもよかった。
「その男の名は?」
由がモジモジしながら答えた。
「クソンバチと言います」
「糞ン蜂?」
卑弥呼は首を傾げた。
「主人の名は?」
「大長老様とかで、今聖地の部族長会議にお出になっているとか。なんでも、昔の阿蘇国の部族長様だと伺いました」
(ああ、阿蘇国!)
卑弥呼は自分の勘が間違っていないことを確信した。
(その大男は、あの時の伊太加の奴隷に違いない!)
「お前、伊太加のことをその男から聞かなかった?」
由は目を白黒させたが、伊太加のことは聞いていないようだ。
もちろん、その伊太加については由も卑弥呼から聞いてはいたが、しかしそれも去年までのことで、だんだん卑弥呼自身も伊太加については口にしなくなっていた。
およそ女ばかりの旧王宮では、戦争の噂を聞き込んで来るのは黄蜂だけだったが、この少年はまだ十二歳で耳までが遠い。
伊太加どころか、戦況すらもわからなかった。
しかも女奴隷の由にしてみれば、卑弥呼は自分より五つも年下で、まだほんの少女にしか見えなかったのだろう。卑弥呼が聞きたがるその若い戦士の名にしても、まだその頃は本気で聞いていなかったからかも知れない。
卑弥呼は卑弥呼で、あの森の中での約束通り、伊太加が聖地へ出て来さえすれば、すぐにこの旧王宮に来てくれるものとばかり信じていた。そして伊太加のことをもっと詳しく聞こうと思っていたのだ。
だけど、今の卑弥呼には、大長老が元阿蘇国の部族長だと聞いても、それが伊太加とどんな関係なのか分からなかった。
体に縞のある犬についても、阿蘇火山地方にはいくらでもいる犬の特徴で、何も伊太加の犬とは限らないのではないか。
しかも、大男など、この聖地に多勢いるではないか。
伊太加について、自分は何も知らないのだ。
これまでも何度か聖地で伊太加と似た姿に出会い、ハッとして喜び勇み、そして失望する。これもそんな繰り返しの一つなのではないかとも思う。
ただ、”糞ン蜂”という奴隷の名には聞き覚えがある気がした。
あの森の枯葉の吹き溜まりで二人で過ごしたあの時、伊太加がそう呼びかけてはいなかったか?
しかし、それも確かな記憶ではないが。
卑弥呼の身を疼かせた甘い予感が、まるで砂でも掴んだように掌の内で崩れて行った。
卑弥呼はその場に崩れ落ちた。
しかしその瞬間、卑弥呼の脳裏に懐かしい音色がこだました。
(……女王の金の鈴!)
卑弥呼は再び予感を胸に、糞ン蜂について由に詰め寄った。
旧王宮の裏手にある森の涼しい木立の中で、卑弥呼は麻布を織っていた。
日盛りの真昼ではあるが、日光はそこでは淡い斑点となって散らばっている。
卑弥呼は、低く這った木の枝に縦糸を掛け連ねた板を結び付け、その縦糸の間に右へ左へと交互に針を通しながら織手を進めていた。
朝からそこに座ったきりの卑弥呼は、一度やり出すと一心不乱になるたちだ。
女奴隷の由から織り方を習い、この春から夜が明けるとここに来た。
麻の平織地が出来上がると、それは残らず軍服地になった。
大乱は三年目に突入し、ますます激しさを増していた。
全ての氏族の女たちは、こうやって自氏族の戦士たちの為に軍服を織っていた。
卑弥呼も日が暮れるまで織り方を続けていた。
そんなある日の昼近く、卑弥呼は自分の横に犬がいるのに気付き、驚いて声を上げた。
犬はすぐに森の奥へ駆け込んで見えなくなったが、森の奥から鋭い口笛が聞こえ、犬がその口笛の主を追うように、森を横に駆け抜けて行く気配がした。
犬が駆け抜けるのに合わせるように、リ、リンと鈴の音が聞こえた気がした。
卑弥呼は心臓の高鳴りを押さえながら、耳を澄ました。
その鈴の音色は特殊なものだ。
皮紐で手首に巻いて踊る時、いつも鳴らす自分の鈴の音に似ていた。
……女王にもらった金の鈴。
とすれば、あの伊太加の犬が来たのではないか?
しかし、鈴の音はそれきり聞こえなくなり、犬を連れた飼い主も庭から姿を消してしまったようだった。
卑弥呼は大声で、女奴隷の由を呼んだ。
由が駆けて来た。
「今、誰か来ていたの?」
卑弥呼が尋ねると、由が拍子抜けしたように答えた。
「黄蜂の兄弟が来ておりましたが」
由の声は小さい。焦れったそうに卑弥呼が矢継ぎ早に言った。
「犬を連れていた?」
「はい」
「どんな犬?」
「それが、その、犬がどうかなさいましたか?」
「いいから、どんな犬なの?」
「その、なんだか怖い犬で、食物をやろうとしても手に食いつきそうにするんです」
「体に縞のある犬?」
「はい」
「あるのね?」
「黒い輪になって…確か尾の先まで」
「黄蜂の兄弟ってどんな男?」
「……」
「雲突くような大男?」
由がうなずいた。そして赤くなった。
卑弥呼はその理由に思い当たることがあったが、今はどうでもよかった。
「その男の名は?」
由がモジモジしながら答えた。
「クソンバチと言います」
「糞ン蜂?」
卑弥呼は首を傾げた。
「主人の名は?」
「大長老様とかで、今聖地の部族長会議にお出になっているとか。なんでも、昔の阿蘇国の部族長様だと伺いました」
(ああ、阿蘇国!)
卑弥呼は自分の勘が間違っていないことを確信した。
(その大男は、あの時の伊太加の奴隷に違いない!)
「お前、伊太加のことをその男から聞かなかった?」
由は目を白黒させたが、伊太加のことは聞いていないようだ。
もちろん、その伊太加については由も卑弥呼から聞いてはいたが、しかしそれも去年までのことで、だんだん卑弥呼自身も伊太加については口にしなくなっていた。
およそ女ばかりの旧王宮では、戦争の噂を聞き込んで来るのは黄蜂だけだったが、この少年はまだ十二歳で耳までが遠い。
伊太加どころか、戦況すらもわからなかった。
しかも女奴隷の由にしてみれば、卑弥呼は自分より五つも年下で、まだほんの少女にしか見えなかったのだろう。卑弥呼が聞きたがるその若い戦士の名にしても、まだその頃は本気で聞いていなかったからかも知れない。
卑弥呼は卑弥呼で、あの森の中での約束通り、伊太加が聖地へ出て来さえすれば、すぐにこの旧王宮に来てくれるものとばかり信じていた。そして伊太加のことをもっと詳しく聞こうと思っていたのだ。
だけど、今の卑弥呼には、大長老が元阿蘇国の部族長だと聞いても、それが伊太加とどんな関係なのか分からなかった。
体に縞のある犬についても、阿蘇火山地方にはいくらでもいる犬の特徴で、何も伊太加の犬とは限らないのではないか。
しかも、大男など、この聖地に多勢いるではないか。
伊太加について、自分は何も知らないのだ。
これまでも何度か聖地で伊太加と似た姿に出会い、ハッとして喜び勇み、そして失望する。これもそんな繰り返しの一つなのではないかとも思う。
ただ、”糞ン蜂”という奴隷の名には聞き覚えがある気がした。
あの森の枯葉の吹き溜まりで二人で過ごしたあの時、伊太加がそう呼びかけてはいなかったか?
しかし、それも確かな記憶ではないが。
卑弥呼の身を疼かせた甘い予感が、まるで砂でも掴んだように掌の内で崩れて行った。
卑弥呼はその場に崩れ落ちた。
しかしその瞬間、卑弥呼の脳裏に懐かしい音色がこだました。
(……女王の金の鈴!)
卑弥呼は再び予感を胸に、糞ン蜂について由に詰め寄った。