卑弥呼は十七歳になった。
うららかに晴れ渡った冬の朝、聖地広場で大出陣式が行われた。

さすがの広場も大軍団で埋め尽くされたかに見えた。
それは三千人とも言われ、主に邪馬台国に新しく参加した諸少国の戦士たちで、武器も軍装もとりどりだった。
氏族毎に縦隊を作り、それが何十列も縦に並んで正面の大祭壇と向き合っている。

邪馬台山の参道脇に一本の杉の巨木がある。
それは広場での祭りの時の神木だが、その杉の木を背にして丸太作りの大桟敷が組み上げられていた。
それが大祭壇と呼ばれるもので、春秋二回の邪馬台山の例祭には、大呪術者女王がそこに登り神々に対するのだ。
春には五穀の健やかな成育を、秋には豊かな実りを乞い、なおくさぐさの行く末久しい恩籠を願う。

ところで今は、その大桟敷がそれと同じ位置にあるので大祭壇と呼ばれるのだが、これはその本物よりも遥かに高く横にも長い。この日の晴れの行事を送迎する、いわば大観覧席とも言うべきものだったからだ。
聖地とその周辺から全ての氏族長とその家族たちが、戦時下ながら、思い思いの盛装で早くも桟敷に溢れんばかりだった。
桟敷は五段となっていた。
最上段が女王の席であり、そこからやや広い通路が下に真っすぐ下りていた。
人々はその通路を挟んで、各氏族毎に、その盛威と位置に応じて上から下へ、また左右対称に居流れていた。

今朝は女王も臨席しており、卑弥呼は女王の隣にいた。
こうした晴れの出陣式などに、女王はいつも卑弥呼を側に置きたがる。
桟敷に花を撒いたように輝き佇む氏族長たちの若い妻や娘たちち対し、さあ、この素晴らしい美人の卑弥呼と太刀打ち出来る娘がいるかい?、といった気分だったのだろう。

この戦士の大群はともかく寄せ集めの連合軍団だった為、邪馬台国から出される、総指揮官や幕僚の選考は非常に難しいものだった。
その為、出陣式が遅れていたが、気の早い氏族の戦士たちは半月も前から聖地に参集し、今日のこの大出陣式を待望していたのだった。

大桟敷下の正面に、老女神官水掻が登場した。
大榊木を両手に棒持している。大榊木とは、葉の茂った長さ二米もあろう太い木の枝に、裂いた白麻を小枝という小枝から総のように垂らしたものだ。
これを採り物として、大軍団の頭上に振るって武運長久を祈願する。

水掻は背がごく低い。それが老いて萎びた女だ。
大採り物の白麻を頭からかぶって、右に左によろめいて、風が吹けば倒れてしまうだろう。

それを見ていた老女王が、卑弥呼の掌を握りながら耳打ちした。
「あいつ、二日酔いなんだ」
そしてニヤニヤ笑いながら、
「昨夜は二人で飲み明かしちまった。あいつがまた、女王様にお仕え申して幸福だったとぬかすからだ。何が私に仕えて幸福なもんか。お前なんか、女の幸福をその年になるまで知らないじゃないか、と言ってやったのさ。お前は男を知ってるのかってね。すると、あいつが怒って飲み出したもんだから夜が明けちまったのさ」

卑弥呼は二人の間をよく知っていた。
卑弥呼は生まれるとすぐ女王に引き取られたが、女王はいつも水掻と暮らしていたので、この二人の女に養育されたからだ。
水掻はもと子守りとして王宮に召された奴隷娘だった。現女王五歳、水掻十歳の時で、以来五十年、二人は一日として離れて暮らしたことはないと言う。

老女神官水掻は大軍団前列の中央で立ち止まると、振り向いて老女王に一礼し、それから大軍団に向かって大採り物を高く捧げた。全戦士が地面に膝をつき、武器を伏せる。
水掻が呪文を朗し始めた。
その声は起伏して断続しながら、ある時には特別強く響きもしたが、その意味は皆目戦士たちにはわからなかったであろう。森の木々が風に揺れて鳴るのにも似て、とても人間の声とも思われなかった。

桟敷下の左右に、それぞれ十人の娘神官たちが整列して、老女神官の呪文を唱和した。
しゃがれた低い声に合わせ、つんざくような高い声々が広場を満たして響き渡った。
その夜は何も起こらなかった。
ただ、夜がふけるにつれて西風が吹き始め、夜明けには、断続する豪雨を伴って台風となった。

その日は一日、雨風をつき、黄蜂を、旧王宮と聖地の東の門との間を何度も往復させた。
部隊は東から来るはずなので、必ずその東の門を通るはずだと思ったからだ。
しかし、卑弥呼の思いも虚しく、風のみ荒れ狂うまま、その日も暮れた。

台風の中心がこの聖地を通るのだと言われていた。
旧王宮の空屋だったものはほとんどが吹き飛ばされた。
卑弥呼と乳母、女奴隷と少年のいる三棟一組の家屋だけが倒壊を免れていた。
宰相雁が差し向けた数人の男たちが、この家屋につっかい棒をかい、網をかけ、藁束を抱えて屋根を登ったり下りたりしていた。

卑弥呼は園丁登呂虫の小屋へ移った。
そこは大木に屋根の棟木が渡してあり、その上三方が竹藪なので、吹き付ける雨風に耐えていたのだ。

夜になり、三度目か四度目の黄蜂の報告で、伊太加の様子がようやくいくらか掴めてきた。
それは大部隊のようだった。
真夜中近く、その先頭が続々と東の門から聖地へ入って来ていたが、伊太加の部隊は大分遅れているようだ。
川の氾濫で道という道が水に埋まってしまっているのだ。行軍中の渡河で水没する者も出ているらしい。

風は夜中裏手の森を揺すって吹き荒れたが、明け方になりにわかに止んできたようだった。台風は峠を越したのだ。
辺りが白んできた。
雨だけがなお降り続いており、近くの竹林の葉むらを薙ぎたて、雨脚が波打ちながら薄く光っては消えている。

卑弥呼は雨にしぶかれながら庭へ出た。
竹林に沿って庭を抜けると、聖地広場へと歩き始めた。
旧王宮から広場までは一本道だが、今は戦争中のことで草深い。
途中の十字路には赤樫の大木が鬱蒼と枝葉を広げており、それを真っすぐ東へ下れば聖地広場だ。そして左へ折れる北の道は、今の王宮脇の赤松林に沿って広場へでる。
伊太加はどちらの道を来るのだろうか?
卑弥呼はその赤樫の木の大きな傘の下に入って佇んだ。

風は衰え、雨も次第におさまっているようだ。
二日二晩、卑弥呼は寝ていない。しかし、自分がこの木の下にいれば……そして伊太加が聖地の東の門を入ってくれば、必ず逢えると卑弥呼は一筋に疑わなかった。

東の正面の廃道に、小さな点となって微かに人影が浮かんだ。
一目散にこちらに向かって駆けて来るようだった。
その足下からは水煙が吹き上がっている。若い男だ。
髪を振り乱し、上着の前がはだかって裸の胸を剥き出しながら駆けるその男は、卑弥呼を見、十歩程手前でようやく踏み止まった。
そして長剣の柄を握り直すと大股に歩み寄ってきた。そして卑弥呼の左右の肩にいきなり両手をかけた。伊太加だった。

「お前は、卑弥呼じゃないのか?」
卑弥呼は何も言えなかった。伊太加を見上げたまま、涙がぽろぽろと頬に伝った。
卑弥呼は我と我が身に感動していた。誇りすら感じた。
長い間耐え、待ち焦がれた瞬間がとうとう訪れたのだ。
体中の血がたぎり、まるで炎を上げて燃えているようだった。

伊太加の掌が肩を強く掴んだ。
「オレは、とてもお前に会えないと思っていた。だから庭先からでも、一目お前の姿を見れたらと思って来たんだ」

伊太加は頭から泥まみれだった。それに半裸で裸足だ。
短い上着に猿股のようなものしか穿いていないが、腰に帯革を締め、長い剣を下げていた。
日焼けで黒光りする顔を痩せて、駆け続けてきたらしく息がおさまらないようだ。胸を大きく波打たせて、吹き出す汗が蒸気となって白く顔にまとわり付いていた。

「今朝、日の出と同時に出発なんだ」
伊太加は言った。
「どこへ?」
卑弥呼はようやく口を開いた。
「西の方だ」
「帰りには、またここを通る?」
「わからん」
伊太加はため息をついて笑った。
「いったい、いつになったら卑弥呼とゆっくり会えるのかな」
そして屈んで卑弥呼の顔を覗き込み、明るい声で言った。
「オレはまだ下級の指揮官だ。部下も百人しか貰えない。しかし、そのうち、お前にも喜んでもらえる程の軍功を立ててみせるぞ」

伊太加は右肘に汚い包帯を巻きつけていたが、それに血が滲んでいた。卑弥呼は愛しげに指でその包帯に触れた。
伊太加は何も言わなかった。ただ、伊太加の両手が自分の肩にかかったままなのが、卑弥呼には切なかった。

今こそ、と卑弥呼は思う。
どんなにこの男を愛しているかを示したかった。
もどかしく自分の胸元を掻きむしり、衿のはだけた胸に、伊太加の片手を掴み返して乳房の一つをさぐらせた。
濡れてぴっちりと張り付いた卑弥呼の上着の布が剥がされ、男の指が乳房に触れた。
その指先は、それを慈しむようでもあり、また苛むようでもあり、卑弥呼は上半身をのけ反らせた。
伊太加の首に片腕を巻き、自分の胸に引き寄せた。
伊太加が卑弥呼を横抱きにし、屈んで乳房を口に含むと乳首を吸った。
卑弥呼はうめいた。今こそこの男に自分の愛を惜しみなく与えているという喜びに満たされ、恍惚の境に置かれていた。

気が付くと、伊太加は卑弥呼を見つめたまま後退り、その目は卑弥呼の顔と乳房とを繰り返し追いかけていたが、その顔には微笑みの破片もなかった。むしろ、厳しく怒ったような表情だった。
そしてその全身からは、卑弥呼と同じく、触れ合えた大きな喜びと同時に、引き裂かれることへの深い苦しみが滲み出していた。

朝日の初光が、若い戦士の姿を眩しく逆光でくまどっていた。
伊太加はくるりと背中を向けると、今来た道を駆け去って行った。
五年前、この旧王宮に卑弥呼たちが移された年から、糞ン蜂は、弟黄蜂を尋ねて来るようになった。
年に一度程だったそれは、去年の夏辺りから毎月一度に増えていた。
御主人の大長老が聖地の軍事会議に常駐することになったので、伝令兵として戦地から赴いているのだ。
由の話を聞き、卑弥呼は糞ン蜂が彼女の男であることに気付いた。

月に一度、由を尋ねて来る男がいることは知っていた。
二ヶ月程前だったか、夜中に犬が凄まじく吠える声を聞いた。
狐でも追い回していたのだろう。
思えば、あの鈴の音を聞いたのもその夜のことだ。
追い詰められた獣と犬の吠声に消され、鈴の音も錯覚かと思いもしたが、しかし、確かにそれ以前にも、夜中にその鈴の音を聞いたことがある気がする。
卑弥呼は部屋の戸口まで出た。
犬はすでに獲物を追って遠ざかり、辺りはまた静寂に包まれている。
すると、微かに足音がした。
春のおぼろな月影に揺らめいて、女奴隷の由が忍び足で庭を通り抜けて行くではないか!

卑弥呼は、男のことを追求されて思わず顔を赤くしている由に構わず言った。
「今すぐここへ糞ン蜂を呼んで来て!」
「それは……」
「伊太加のことで聞きたいことがあるのよ」
由は顔を上げたが、ますます混乱しながら答えた。
「今日はこのまま戦地へ出発するとか言っていましたから、もう……」
「もう、何よ!」
「ここにはいないかと……」
「いいから黄蜂を迎えにやって!早く!」

黄蜂が兄の糞ン蜂の迎えに走った。
しばらくして帰って来ての報告では、やはり糞ン蜂は出発した後らしかった。
しかし、その十日後、糞ン蜂がまた現れた。
卑弥呼は一目で、あの森で栗の袋を担いで追いかけてきた大男の奴隷と分かった。

「お前、伊太加の従者ね?私を知ってるでしょう?」
「はい」
糞ン蜂は、七月の炎天の庭にうずくまって目をパチクリさせた。……はい、とは言ったものの、本当は何のことだか分からないらしい。
卑弥呼は、一昨年の秋の開墾地でのことを前後しながら説明した。
糞ン蜂がうなずいた。ようやく思い出したようだ。

伊太加は聖地へ行きたがっていた。
それに、それがあの森で会った少女が原因らしいことも薄々感じていたが、その少女の名も身分も知らなかったし、仮に卑弥呼の名を聞いたとしても、まさかそれが弟黄蜂の御主人の旧王宮の卑弥呼様、女王様の一人娘であるとは気付くはずもない。

今、この若い主人たちの関係をほぼ察した糞ン蜂は、喜びを隠しきれずにいた。
伊太加様の恋人が卑弥呼様だとすれば、その恋の使者として、自分は公認でこの旧王宮に出入り出来るではないか。
それに、もし、このお二人が一つ屋根の下に住むことになろうものなら、自分も由や弟の黄蜂と一緒に住めることになるかも知れない。
糞ン蜂は主人伊太加が好きだ。
この若い主人とは同年でもあり、少年の時から親しんでいた。伊太加もまた自分に特別目をかけてくれた。
卑弥呼様が自分の主人を愛し、主人も愛しているのならば、すでに卑弥呼様は自分の主人に準じたようなものではないか。

「伊太加は何してる?お前、私のことを聞かなかった?」
卑弥呼の質問に、糞ン蜂は精気溢れる顔を上げた。
「申し上げます。……実は、作戦上、これこそ漏らしてはならないことではございますが……」

糞ン蜂は伝令兵としてあるまじき事をしているという自責の念と、愛する主人伊太加に酬ゆることへの喜びとが入り混じって胸が詰まった。
「伊太加様は、すでに聖地へ向かって出発なさいました!」
「何?何のこと?」
「今夜、おそらく、伊太加様はこの聖地に御到着になりましょう」
「いつ? いつですって?」
耳を疑った。その言葉を何度でも聞きたかった。
糞ン蜂が繰り返した。
「今夜にも!」

卑弥呼は思わず立ち上がっていた。そんな彼女に糞ン蜂が言葉を足した。
「伊太加様の部隊は大部族の一部として、この聖地を抜けて戦線を西へ移動することになっております」
「では、もうこちらへ向かっているのね?」
「はい。私は、そのことで一足先にこちらの大長老様へ御報告に参った訳でございます。これから帰途につきますが、途中御主人伊太加様にお目にかかれるものと思います」
「伊太加は、あの森の時から、今夜初めて聖地へ来るのね?」
「はい」

卑弥呼は胸が熱くなるのを感じた。
目に一杯涙をためて泣き声で言った。
「伊太加に、来てと伝えて」
それだけ言うのがやっとだった。
糞ン蜂が飛ぶように立ち去った。