そうだったのか町の電気店 -3ページ目

迷わず町の電気店

 それはさておき。

 これも勝手な推測だが、エアコンももしかしたらディスカウントに購入の相談をされたかもしれない。

 当然ながら、冷房のピーク時は平気で3週間待ちがあたりまえの世界である。

 案の定というべきか、久しぶりに受注をいただいたが、翌日には新しいエアコンの工事をさせていただいている。



 つづき



 例にもれず、エアコンの価格は町の電気店のそれより、ディスカウントのそれは圧倒的に安い。

 価格が安い所へもってきて、工事費が材料込で一万円か、工事費込という表示まである。

 そうはいえ、3週間待ちはたまらない、少し高いくらいならということでお声がかかるケースがあるのである。


 話は戻るが、価格が高いのはいまさら…である。

 価格が高くても、初めから最優先にされることが町の電気店の課題ということである。

 世間標準とまではいわないが、特に、安全と安心を最優先しなければならない層に属されるお客様は、迷わず町の電気店といってもらえるようになることが町の電気店の課題ということである。



 つづく




電気店○○に尽きる

 ここ最近というか、お盆の直前、何軒もコールがあるのはいつものことだが、特に、久しぶりのコールというのが目立った。

 しばらくご無沙汰だったが、久しぶりに思い出したようにコールがきたというケースである。

 10数年前に、当店で取り付けたエアコンが故障したと。


 

 つづき



 その間、地デジ化もあったから、当然薄型のテレビは他店、それもディスカウントから購入されているであろう、と思っていたら、当然のことだが、やはりそうだった。

 その少し前にはアンテナ工事で汗もかいている。

 アンテナ工事で汗をかきながら、テレビ一つ買ってもらえないというのは、多くの町の電気店スタッフがそうであろうが、これは電気店ナニに尽きるというのだろうか。

 冥利に尽きるの逆のケースである。


 それはさておき。

 これも勝手な推測だが、エアコンももしかしたらディスカウントに購入の相談をされたかもしれない。

 当然ながら、冷房のピーク時は平気で3週間待ちがあたりまえの世界である。

 案の定というべきか、久しぶりに受注をいただいたが、翌日には新しいエアコンの工事をさせていただいている。

 





 つづく

久しぶりのコール

 母国のイギリスやアメリカにいわせれば、邪道きまわりないという話だが、それでもなにはともあれ、母国の言語が世界の標準言語になったということは、いいことではないかと。

 世界をまたにかけて活躍の場をといったとき、日本人はまず英語をマスターしなければならない。

 私も一時期外国語を勉強しようと志したことがあるが、それはそれは果てしない道のりである。



 つづき



 私の語学学習はともかくとして(笑)、母国語が元々世界言語である国の人たちは、語学学習をしなくてもよいという、大変優位なアドバンテージを有しているのである。

 さて、話を戻すが、そこで町の電気店である(笑)。

 町の電気店が、世間の標準電気店になることを願うとまで厚かましいとは言わないが、せめてもう少し市民権を得てもよいのではないかという話である。


 ここ最近というか、お盆の直前、何軒もコールがあるのはいつものことだが、特に、久しぶりのコールというのが目立った。

 しばらくご無沙汰だったが、久しぶりに思い出したようにコールがきたというケースである。

 10数年前に、当店で取り付けたエアコンが故障したと。



 つづく

英語が世界標準言語

 翻って、柔道が一時的に不甲斐ないとはいえ、あるいは、当面今のままとしても、それはそれでブランド化した点でよかったとはいえまいか。

 さらに翻って、町の電気店なるものも、今一度ブランド化をめざし、なにもすぐに振り向いてくれとはいわないが、選択肢のせめて末席に位置付けられるように努力することは使命と思う。


 

 つづき



 とある識者が面白いことをいっていた。

 英語とは、文字通り、イギリス発祥で、イギリスアメリカが中心の言語である。

 ところが、エスペラント語をさしおいて、英語は世界標準言語となった。

 とある国では文法も無茶苦茶で、和製英語なる言葉も誕生した。

 

 母国のイギリスやアメリカにいわせれば、邪道きまわりないという話だが、それでもなにはともあれ、母国の言語が世界の標準言語になったということは、いいことではないかと。

 世界をまたにかけて活躍の場をといったとき、日本人はまず英語をマスターしなければならない。

 私も一時期外国語を勉強しようと志したことがあるが、それはそれは果てしない道のりである。



 つづく

ブランド化と町の電気店の使命

 しかしながら、それぐらいで驚いていてはいけないというのが、ウィンブルドン現象である。

 発祥の地でありながら、聖地にして、母国から優勝選手を出していない。

 その年月たるや…

 なんと!70余年!




 つづき



 今年のウィンブルドンで、イギリスの選手が70数年ぶりに優勝かとざわめき立ったが、結局決勝で涙を飲んだ。

 発祥地でありながら母国は優勝から遠のく。

 が、ひいては、聖地とし、ウィンブルドンを目標とすることで、そこがメッカとなり、世界中から人と物と金が集中する。

 ウィンブルドン現象というのは、プラスの意味も含まれているといえる。


 翻って、柔道が一時的に不甲斐ないとはいえ、あるいは、当面今のままとしても、それはそれでブランド化した点でよかったとはいえまいか。

 さらに翻って、町の電気店なるものも、今一度ブランド化をめざし、なにもすぐに振り向いてくれとはいわないが、選択肢のせめて末席に位置付けられるように努力することは使命と思う。


 

 つづく

ウィンブルドン現象

 カラー柔道着を認め、差し出争いに終始し、柔よく剛を制すとはおよそ程遠くなったといえばいえるが、百歩譲ることとし、日本で生まれた柔道が、五輪種目の一部として、すっかりブランド化したではないかという考え方からすれば、それはそれでありではないか。

 また日本が突出した実力を身につけるかどうかは、また別の話である。


 

 つづき



 新報道2001に話を戻すが、「ウィンブルドン現象」なるキーワードが気になった。

 その前に、我が国の国技、大相撲は、実は2006年初場所に当時大関栃東が優勝して以来(だったはず)、日本人の優勝力士が現れていない。

 天地がひっくり返るほどの一大事といってもいい現象である。

 その後、朝青龍、白鵬、琴欧州、日馬富士他、ことごとく外国人力士で占めてきた。


 しかしながら、それぐらいで驚いていてはいけないというのが、ウィンブルドン現象である。

 発祥の地でありながら、聖地にして、母国から優勝選手を出していない。

 その年月たるや…

 なんと!70余年!




 つづく

五輪種目としてブランド化

 東京五輪以来、男子が金メダルゼロに終わったということがなかった。

 それがついにロンドンでゼロ。

 それは、一見日本が不甲斐ないという一言で片付ければ片付くが、一方で、世界に裾野が広がったではないかという視点でいえば、大いにプラスと評価する識者もいる。





 つづき



 ちなみに日本の柔道競技人口が20万人、一方、フランスでは80万人ともいわれている。

 タジキスタンやトルクメニスタンなど、旧ソ連圏の国でもさかんになったことを思えば、もう柔道はじゅうぶんに世界に浸透したではないかと評価できるという意見には、一理同感である。

 確かに講道館柔道なるもの、柔道ではなく、JUDOとなり、すっかり異質のものになってしまったという見方もあるが。


 カラー柔道着を認め、差し出争いに終始し、柔よく剛を制すとはおよそ程遠くなったといえばいえるが、百歩譲ることとし、日本で生まれた柔道が、五輪種目の一部として、すっかりブランド化したではないかという考え方からすれば、それはそれでありではないか。

 また日本が突出した実力を身につけるかどうかは、また別の話である。



 つづく

柔道男子金メダルゼロは…

 単純に、今から20年前、92年のバルセロナ大会では、谷亮子選手がピークで、その後冬の五輪ではスケートの清水選手など。

 今アラフォーに差し掛かる世代がピークのとき。

 遡ること40年前は、新生児が200万人に対し、今の新生児は100万人と半分。

 コドモの数からして裾野が疲弊していることは明らかである。



 つづき



 スポーツに限らないが、少子化で、デフレで、低価格至上主義で、さらにいえば、携帯やパソコン、通信料に莫大な出費をして…は余分か。

 世の中のあらゆることが頭打ちではないか。

 少し話を戻すが、たとえば、柔道の男子、金メダルゼロ現象が象徴的なできごとであった。


 東京五輪以来、男子が金メダルゼロに終わったということがなかった。

 それがついにロンドンでゼロ。

 それは、一見日本が不甲斐ないという一言で片付ければ片付くが、一方で、世界に裾野が広がったではないかという視点でいえば、大いにプラスと評価する識者もいる。



 つづく

裾野の拡大とトップの強化

 ちなみに、過去一度消滅し、その後またミュンヘン大会から復活したのが、アーチェリーである。

 過去の消滅理由は、鳩を標的としていたことが残酷とのことから。

 採点基準がはっきりしない話でいえば、ふだん見ないスポーツでも、たとえばフェンシングなんかがそうだが、たまに五輪で観戦しても、ルールが今一つよくわからない。



 つづき



 見ているうちに徐々にわかってくるのだろうが、わかった頃には五輪の終了と共に関心も薄れる。

 関心が薄れると同時に、マイナーな競技はよほど五輪でもなんでもないときに、啓蒙活動をしないことには、種目から外されたのでは意味がない。

 

 先日の新報道2001でもいっていたが、種目、ひいては、五輪全般において、肝要なことは、裾野の拡大と、トップの強化であると。

 なるほど。

 単純に、今から20年前、92年のバルセロナ大会では、谷亮子選手がピークで、その後冬の五輪ではスケートの清水選手など。

 今アラフォーに差し掛かる世代がピークのとき。

 遡ること40年前は、新生児が200万人に対し、今の新生児は100万人と半分。

 コドモの数からして裾野が疲弊していることは明らかである。



 つづく

消滅競技とその理由

 消滅理由。

 ルール他を取り仕切る国際組織がなかったことがその理由であった。

 また、競技はスポーツだけではなかった。

 絵画、彫刻、文学、建築、音楽なども。

 そういえば、アジア大会では、チェスがある。

 リオ五輪からゴルフが種目としてエントリーされるようだが、ゴルフにしたところで、違和感がある。

 ましてや、絵画彫刻…。


 

 つづき



 過去には、日本人も絵画や水彩画で銅メダルを獲得しているという。

 笑えるのが、絵画、芸術関連種目の消滅理由。

 採点基準がはっきりしないから。

 それはそうだろう(笑)。


 ちなみに、過去一度消滅し、その後またミュンヘン大会から復活したのが、アーチェリーである。

 過去の消滅理由は、鳩を標的としていたことが残酷とのことから。

 採点基準がはっきりしない話でいえば、ふだん見ないスポーツでも、たとえばフェンシングなんかがそうだが、たまに五輪で観戦しても、ルールが今一つよくわからない。



 つづく