どもどもあせる

牛鬼でーす


今日はみーーんな大好きビックリマーク戦国武将のお話をしたいと思います。


それでわ、島津義弘の逸話をしまーーす。

有名な「島津の退き口」と呼ばれる話です。

関ヶ原の戦いでの事ですね。

島津義弘って名前みんなも聞いたことがあると思います。

薩摩の武将で非常に武勇に優れていました。

島津はこの時家康から徳川方の山城伏見城の守備にあたるように要請を受けていました。

しかし、城代の鳥居元忠との連絡がうまくいかず、

仕方なく徳川側から離れるしかありませんでした。

でもこの時伏見城に入城できていたらどうなっていたでしょうね~~

この後伏見城は落城して、鳥居元忠は戦死してしまいます。

かなすぃいいいい!!

しかし鳥居元忠も素晴らしいですねぇ・・・・

家康の死守せよという命に従って戦死するとはしょぼん

この時鳥居元忠が率いていたのは約1800人それに対して豊臣方は4万ですよ!!

泣けるねぇ・・・・

しかもこの時城兵は奮戦し、豊臣方を苦戦させたほどです。

と鳥居の話はさておき島津が率いていたのは1000人ちょいです。

1500人位だったのかな?

泣く泣く豊臣方についた島津は石田三成の攻撃要請を全て受け流し、

陣形を保ったまま動きませんでした。

やがて豊臣方の大敗が決定的となった時、

敗残兵が西方に逃げてゆく中、島津はどうしたと思います??

今更そっちの方に向かっても追いつかれると言って、

徳川方の大軍に突撃をするんですよ!!

いいいいいいいいいいいいいいいいいい!!って感じですよねぇ・・・・

たった1000人ちょいの部隊が何万人という大軍に突撃するとかすごすぎでしょドンッ

この後気圧された徳川方の陣に隙ができて何とか島津隊は戦場を離脱することができたのです。

追撃戦では徳川方に追いつかれる度に「我こそが島津維新(義弘)なり!」と次々と兵が身代わりとなり討たれたらしいです。

そういう事もあって、追撃戦で義弘の甥の島津豊久を含め、1000人近くの兵が討ち取られました。

島津家臣団の団結力と義弘の統率力がいかに強いかって事がうかがえますね~

という訳で家臣達の影武者作戦のおかげで島津隊は戦場を離脱できたっていう逸話でした~。

しかし甥が亡くなったって本当に悲しいですね~

でもすごくないっすか??

西に退却しなければならない時にあえて前進して敵をうまくまくことができたっていうのが

こんな話じゃすごさが伝わらないと思うのでこの動画を参考に!!


何か興味ない人にとってはおもしろくないかもね汗

でわでわ~パー