脳といえば、茂木さん。わんわん
というくらいすごい数の著書と、TV出演をされていますが、
茂木さんの著書には、「対談」がけっこうあるような気がします。


「対談」は、話し言葉は単純にわかりやすいですし、
なによりも、相手とのフィーリングで出てくる言葉というのは、
ひとりで描く言葉とはまた別の表情があるような気がして、読んでいるととても楽しいものです。チューリップピンク

宝石ブルーそんな対談の中でも、共感しすぎた内容満載だった、
様々なアーティストとの対談を収録した「芸術脳」から。


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内藤礼氏と茂木氏



内藤 人の心の中にある美しいものは、見ることも触ることもできない。
   記憶することも留めることもできない、つまり保存できない。
   すごく瞬間的なものだったり、心の中の美しいものを見つけたその人しかわからない。
   
その人が死んでしまえば、本当にあったのかどうかもわからないはかないものですよね。
   本当に美しいものとはそういうものだっていう気がする。



茂木 いま内藤さんがおっしゃったようなことって、現代の人間よりも中世以前の人のほうが

    よくわかってたんじゃないかって
    気がするんですよ。
    言葉が発達するにしたがって、いろんな大事なものが抜けおちてきちゃっている

    気がするんです。



内藤 言葉にしやすいもの、わかりやすいものから言語化されていったのかもしれない。
    言葉にしにくいものっていうのは、きっと言葉にならないまま忘れられてきたのかも。



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わたし、「幸福」について、考えない。


だって、幸福については、明確な価値や信念、価値観を持ってるから。


だけど、美しさについては、ずっと考えているかもしれない。


古くは小学生のときも、皆がかわいいというアイドルの顔についての価値観から考えてたっけな・・・。


よくフランス人とか、日本以外の国の方が「すごい美人」と紹介してくれる「彼女」というのは、
日本人からすると、「・・・?」と、首をかしげたくなるようなことが多いという。。。


はて。

美しいとは、

なんぞや。



実際。

美の基準は、大いに変化していると想う。

それでいて。

「黄金法則」もあるという。


日本人はとくに、「それ」を目指してメイクアップしている人種だと想う。

みんな同じ顔になることを目指しているようにも見える。

「違う」ということについて、良からぬイメージが強いのが、日本人の特徴でもあるようだ。


「顔」は、表現。


表現には、いろいろある。


言葉も、「表現」。


かなり前から、「活字離れ」をしているといわれているけれど、

実際には、結構皆、読んでいる。


ただ、「読む」内容の「活字」が、

「話しことば」だったり「わかりやすい言葉」あるいは、

「略語」というものが多くなっているのだと想う。


つまり、イマジネーションを広げるものではないもの。

読みやすいもの。

わかりやすいもの。


すぐ、うなずけるもの。


しかし、言葉ではすべてを表現できないのが現実だということを、

誰しもが感じているのではないだろうか。



だから、ひとは、音で表現する。音楽を聞く。

だからひとは、作品をつくる。作品を、見る。


美しいものを残したい、伝えたい、その心が、なにかを「創る」原動力となる。

なにか、もっと感じたくて。

ひとは、芸能、芸術を楽しむ。


内藤さんがおっしゃるように

「言葉にしにくいものは、きっと言葉にならないまま忘れ去られたのかも・・・」


・・・だとしたら。

私たちは随分、もったいないことをしているような気がする。


すべてを享受していくことは、「すべて」の容量さえも知らない私たちには、到底無理な話だけれど。

でも・・・。

と、想う。


美しいものに触れたい、感じたい気持ちに素直に生きたい。

まいにち。


そう。

少しでも、美しく在りたいと行う行為の日常。


女性の毎日に欠かせない、メイクアップ。


メイクアップを1時間もかけてしたとして、

その出来上がりの美しさは、出来上がった瞬間から、下降をたどる。


だから、「上手いメイク」」とは、「くずれ方が綺麗なメイク」だとも言えると想う。


時々、

「仮面のように、つけるだけ、はずすだけで、メイクができたらいいのに」と、

通りすがりに聞こえる声。


・・・そうだろうか・・・。


そこに、違和感を感じてしまうのは、

電車の中で、フルメイクをしている女性を見たときの違和感に通じる。


美しいこととは、もしかして。


「美しいことを、感じる心」

「美しさを、創ろうとすること」のことではないかと感ずることしばし。



物を永遠の形に、留めておくことはできない。

だけれども、


だからこそ、「美」というものは、甘美であるものではないだろうか。


絶対に成しえないことだからこそ、
絶対に手に入れられないものだからこそ

それ」に憧れ、「それ」に向かう。


そんな対象でありづつけるのが「美」というものではないだろうか・・・


そのとき。向かうとき。


その「人」自身が、美しくきらめいているのではないかと想う。


揺らぐからこその、きらめきがある。キラキラ


美しさは、永遠ではない。

ひとも、また、永遠ではない。


だからこそ。


存分に、揺らめいて。



ひとりひとりのきらめきを。キラキラ




空気は見えない。

だけれどもたしかにあるもの。


そんな空気をも表現できる「職業作家」の方ってすごいな・・・と、単純に想う。


空気読まない、「KY」というワードがはやったときがあったけれど、

マクドナルドのCMで、「空気なんか読むな」っていうのもあったような。

たしか。


ごもっとも。



相手との距離が、50センチだとして、
その間の空気は、何グラム?
面積?体積?何粒・・・?
それらのすべてが調和するとき、
それらのなにかが不調なとき。


気づく人、
気づかぬ人。



「さっきから感じてる違和感は何かとほーっと考えるに、それは、
巻子はここにわたしに向けてしゃべっておるというよりは、
なんだかそもそもわたしが見えてすらいないような感じがあり、
それが大変にこの雰囲気の空振り感を増幅しているのであって、
じゃぁなぜわたしは
ここにおるのに巻子はそれを感じてないようなそんなことがあるのかと考えても、、、」
 
川上未映子「乳と卵」より。



雰囲気の空振り。。。

雰囲気の空振り感を増幅。

あぁ・・・、あるね、って感じでなるほど。


結局、雰囲気っているのは、「空気」という「粒子の集まり」の「姿」を言うのか。


何粒だとか、何グラムだとかまったく。

わからないけれども

わからないそれらが交わった具合が、雰囲気。

まるっといっちゃえ、って。


で、

雰囲気。


これって、ひとにも言えること。


「あのひとの雰囲気、いいね。」=「あのひとの空気感は、いいね。」
って、もちろん褒め言葉だけれども。


それに対して、「どこが?」って、聞いたらたぶん、感じ悪い人になっちゃいそう。

「うん、雰囲気いいよね。」って。普通は返すことが多いはず。


で、「雰囲気って何?」ってはなし。


メイク、服装、肌、言動ですか?

え。

その人がもっているものすべてをひっくるめて「雰囲気」。


「そのひとが内側に持っている雰囲気」と、「身につけているものの雰囲気」と、「言動の雰囲気」とか。

さ。


なんだかわからないけれども、「調和」
なんだか、「素敵」
なんだか「いいじゃん」


しかしまぁ。
雰囲気を追求するって、なんだかしゃらくさい・・・?


素敵は素敵なまま放置。(で、いいじゃん。)


「え・・・・でも、素敵になりたいんで、雰囲気の作り方、教えてください。」なんて日常事。



教えてくださいって、言えることは、素敵事。

いくつになっても、おしえてもらいたいことだらけ。

私も言いたい。


言っていこう。


だけれども、

教えてもらえないこともある。

むしろ、

そっちのほうが、気になるけれど。


教えてもらえないことって・・・、なによ?

そっちをどれか、教えてよ、って。


教えてもらえないことに気づいたときに、教えてもらった教えはたぶん、
その人の中で、広がっていく。


あぁ、、、って、言葉にならない理解の域へ。

「頭」の理解では、まだ本当の理解じゃない。

人が本当に理解したときは、「身体」でわかる。


「わかりました」とうなずいているときは、その言葉を理解しただけであり、
言葉の意味することを理解することとは、別であります。


ひとはひとに。
何を教えてもらえるかというと、

「そのひと」の「身の丈」にあったことです。

でも、「そのひと」は、進化します。


だから本当に教えてもらいたいことは、「身の丈」よりも、「ちょいと上」。

だけれども実際は。

「身の丈」でしか、教えてもらえないのです。


ソコじゃないでしょうか。。。


「身の丈で」満足する人と。(一般的人)
「身の丈に」満足する人と。(自信を持ちたい的人)

「身の丈に、満足できない」人と。(向上心的人)


むりやりの嫌いなカテゴライズ。

「今」が、違えば、「未来」が違う。

「未来」を、作りたいのならば、「今」の「自分」のカテゴライズを変えていく。


じゃぁ。

身の丈に満足できないひとって・・・・・?



満足できない彼女は見上げた。

もぅ首が痛いのに、見上げる。

もぅ足が痛いのに、歩きつづける。


なにかある、

なにかある。

絶対に、なにかある。


見上げて見果てたその先の保障なんてないけれど。


違うのだ。


確率でなんか動かない。


可能性でしか、動かない。



もぅ痛い、もぅ痛い。

もぅ嫌だ、もぅ厭だ。

涙なのか、雨なのか。

わからないほどの混乱のなかでも。


足をとめない。

足をとめない。

とめるわけには、いかないの。


そしてふと、

気づく。


あぁ・・・


体中の力が抜ける。


そのとき。

気づくということの、意味を知った。。。。。。。。。。。。。



本当の理解とは、どんな感じだろう。


「本当の理解の感覚」を、持っていると、


「教えてください」の内容が変わる。


だから、ベクトルが変わる。

そして、空気が変わる。


「ちょいと上」に、近づける。


だから、「ちょいと上」の人がやってくる。

そして、気づきのチャンスは多くなる。



見えないものを、見ていくこと、


今に、満足しないこと、


自分に過信を、しないこと。


その姿勢。


その姿勢がまず、空気を作る。

その眼差しは、きらめている。


その向こう側。


それを見ていく瞳はきらめいていくから、


向こう側を、見てみよう。虹


ひとりひとりのきらめきで。キラキラ




美しくなるために、あるいは、
スキルアップのためには、


イメージ力、イマジネーション力がポイントであると、初めに書いたと想う。

イマジネーションを広げるものを、描けたらよいな・・・と。虹


では、イマジネーションを広げるために、ひとつ氣をつけるとしたら、どんなことがあるだろうかと考える。


イマジネーションのスタートは、

「なぜ?」という言葉から。


なぜ?空は青いの?

なぜ?これは美味しいの?

なぜ?肌の調子は一定ではないの?・・・


様々な「なぜ?」は、スタートライン。

そこからはじまる旅。


この始まる旅を、窮屈にしてしまうものもある。


それは、「判断」。

字のごとく、断られてしまう。

「なぜ?」と想うことは、素敵なこと。


その対象に対し、「判断」することは、「価値付け」である。


価値付けはとても大切なこと。


だけれど、「判断」をしてしまうと、イマジネーションは閉じられる。


私もここでも

「なぜ?」と、疑問を描くけれど、

そこに「判断」はいつも、ない。


良いとか悪いとか。

なにもない。


「疑問」は疑問であり、

そこから始まるストーリーを描くことで、

ひとつのフレーズからは派生した「なぜ?」を描くことで、

ご縁あってお読みいただいた方々の「なぜ?」に、触れられたら・・・。


少しばかりイマジネーションのアクセルを踏みたくなるそよ風に、なれるかしらと、

それだけのこと。ヒヨコ



日々日常に起こるひとつひとつのことが、

断片なんだけれども、つながっていること、つながってしまうこと・・・


そのリンクの素晴らしさと言ったら・・・と、毎日ハッピーな興奮で生きているので、

その一部を描いているにすぎないのだけれども。晴れ


そう、リンク力。

リンク力を、養いたいと、想っている。


また、学習の場でのリンク力の停滞も、気になる。


なにか。

断片で終わっていることが多いような。


皆の「断片を統合する力」が、足りていないのではないかと感じ、
それを「どうやって育んでいくのか」が、私の課題でもある。


また宮崎氏が話されていてことの引用をするけれども、

私のいる現場とは違う「現場」だけれども、同じようなことかしら。。。と、

宮崎氏が感じる現状と分析の言葉たちになるほど。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・引き続き「虫眼とアニ眼」から。

宮崎氏(長いセリフなので、略します。P64~65)


いまの日本人は、愚図になっています。
たとえば、セル画に色を塗るという作業があるんですが、

ちょっと糊みたいに特殊な絵具なもので、普通に塗ると
色むらがでてしまうんですね。


初めは戸惑うかもしれないけれど、3カ月もすれば誰でも覚えていたんですよ。

ところがいまは、2年かかっても覚えられない若いのがいるんです。

それが美術系の最高学府出ていたりする。
そのくせ自分の絵をかくとなったら、かわいらしい絵を描くんです。


これは、適正あるなし以前の問題で、なにか別々の経験を統合する力とか、

子供のときに訓練すべき当たり前のことが欠けたのか、という問題ですね。

トトロのビデオばかりみてたんじゃないかって・・・。笑


ことは、色を塗ることばかりじゃないんですね。

モノを仕上げる最終イメージを頭のなかに作って、たとえば箱をつくるとしてどう展開図を切り抜いて、

どこにのりしろを作って、どういう手順で
作業をすすめれば、効率よく綺麗にしあがるか、ある程度予測はつくでしょう。


ところがつかないんですよ。

もちろんつく子もいますよ。つく子もいるけど、いまはつかない人間が圧倒的に増えている。

時間内に、ハサミで切り抜いてくださいとか、ナイフで鉛筆を削ってもらうテストからはじめたんですよね。

(略)


かなり深刻な問題です。


本人たちはみんな真面目で気がよくて、実に優しい子たちなんだけれど、

一方で信じられないくらいに、生きていくための武装に欠けている。

武装というとおおげさだけれど、世界のことを予見する知恵とか、当座の困難を手先で切り抜ける方法といったことを備えずに、
なにも持たずに出てくる。


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こういったことは、アニメの制作現場でなくとも、見られると想う。


なぜ、このように「実に気のよい子たち」が、こんなにも、基本的なことを・・・??と、

私も感じる。


や、
私だって現代人だから、そういうところがあるのだと想う。

それはしかし、自分で気づいたし、改善の努力はしての「今」だけれども。

まだまだ未熟だし、何事であれ、まだまだだ。


しかしこういった「なぜ?」は、

「嘆き」にしてはならない。


そこから「どうしたら出来るようになる?」と、

「生み出す(=出来るための)質問」に変換していく。


現状を嘆いてもしかたないし、
宮崎氏もこの著書で話されているのは、「嘆き」ではないと想う。
(かなり厳しい言葉はつかっていらっしゃるけれども。)


「なぜ?」と想う対象について、自分は自分であり、他者にはなりえないのだけれども、
イメージしてみる。


イメージできる時点で、判断をしていない。

(判断というのは、「あのひとはああだ、とかだめだ」と想う時点のこと。。。そういう言葉が浮かんだら、それに気づくことから順番に。)



出来ないことを、「出来ない」で判定せず、誰であっても
イメージを膨らませ、「なぜ?」から仮説を、導き出す。



「愛」と「優しさ」という言葉は表面上近しいけれど、ある箇所において、対局に位置すると感じる。

宮崎氏も養老氏も、

時に厳しい言葉を使われているけれど、その底に流れているものに、愛を感じます。



なぜ?の先に、気をつけたい。

目の前の物、人、すべてを、「判断」せず。



まず、受け入れる。


受け入れてからの「なぜ?」の先には、

必ず光。

愛。

命。

すべての根源。


それらは、かならず返ってきてくれる。

受け入れていきたい。

受け入れると、受け取れる。



ひろがるイマジネーションは、かならず私たちを、

助けてくれるから。

受け入れて。


やわらかな

眼差しで。虹


ひとりひとりの、きらめきで。キラキラ