美しくなるために、あるいは、
スキルアップのためには、
イメージ力、イマジネーション力がポイントであると、初めに書いたと想う。
イマジネーションを広げるものを、描けたらよいな・・・と。
では、イマジネーションを広げるために、ひとつ氣をつけるとしたら、どんなことがあるだろうかと考える。
イマジネーションのスタートは、
「なぜ?」という言葉から。
なぜ?空は青いの?
なぜ?これは美味しいの?
なぜ?肌の調子は一定ではないの?・・・
様々な「なぜ?」は、スタートライン。
そこからはじまる旅。
この始まる旅を、窮屈にしてしまうものもある。
それは、「判断」。
字のごとく、断られてしまう。
「なぜ?」と想うことは、素敵なこと。
その対象に対し、「判断」することは、「価値付け」である。
価値付けはとても大切なこと。
だけれど、「判断」をしてしまうと、イマジネーションは閉じられる。
私もここでも、
「なぜ?」と、疑問を描くけれど、
そこに「判断」はいつも、ない。
良いとか悪いとか。
なにもない。
「疑問」は疑問であり、
そこから始まるストーリーを描くことで、
ひとつのフレーズからは派生した「なぜ?」を描くことで、
ご縁あってお読みいただいた方々の「なぜ?」に、触れられたら・・・。
少しばかりイマジネーションのアクセルを踏みたくなるそよ風に、なれるかしらと、
それだけのこと。
日々日常に起こるひとつひとつのことが、
断片なんだけれども、つながっていること、つながってしまうこと・・・
そのリンクの素晴らしさと言ったら・・・と、毎日ハッピーな興奮で生きているので、
その一部を描いているにすぎないのだけれども。
そう、リンク力。
リンク力を、養いたいと、想っている。
また、学習の場でのリンク力の停滞も、気になる。
なにか。
断片で終わっていることが多いような。
皆の「断片を統合する力」が、足りていないのではないかと感じ、
それを「どうやって育んでいくのか」が、私の課題でもある。
また宮崎氏が話されていてことの引用をするけれども、
私のいる現場とは違う「現場」だけれども、同じようなことかしら。。。と、
宮崎氏が感じる現状と分析の言葉たちになるほど。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・引き続き「虫眼とアニ眼」から。
宮崎氏(長いセリフなので、略します。P64~65)
いまの日本人は、愚図になっています。
たとえば、セル画に色を塗るという作業があるんですが、
ちょっと糊みたいに特殊な絵具なもので、普通に塗ると
色むらがでてしまうんですね。
初めは戸惑うかもしれないけれど、3カ月もすれば誰でも覚えていたんですよ。
ところがいまは、2年かかっても覚えられない若いのがいるんです。
それが美術系の最高学府出ていたりする。
そのくせ自分の絵をかくとなったら、かわいらしい絵を描くんです。
これは、適正あるなし以前の問題で、なにか別々の経験を統合する力とか、
子供のときに訓練すべき当たり前のことが欠けたのか、という問題ですね。
トトロのビデオばかりみてたんじゃないかって・・・。笑
ことは、色を塗ることばかりじゃないんですね。
モノを仕上げる最終イメージを頭のなかに作って、たとえば箱をつくるとしてどう展開図を切り抜いて、
どこにのりしろを作って、どういう手順で
作業をすすめれば、効率よく綺麗にしあがるか、ある程度予測はつくでしょう。
ところがつかないんですよ。
もちろんつく子もいますよ。つく子もいるけど、いまはつかない人間が圧倒的に増えている。
時間内に、ハサミで切り抜いてくださいとか、ナイフで鉛筆を削ってもらうテストからはじめたんですよね。
(略)
かなり深刻な問題です。
本人たちはみんな真面目で気がよくて、実に優しい子たちなんだけれど、
一方で信じられないくらいに、生きていくための武装に欠けている。
武装というとおおげさだけれど、世界のことを予見する知恵とか、当座の困難を手先で切り抜ける方法といったことを備えずに、
なにも持たずに出てくる。
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こういったことは、アニメの制作現場でなくとも、見られると想う。
なぜ、このように「実に気のよい子たち」が、こんなにも、基本的なことを・・・??と、
私も感じる。
や、
私だって現代人だから、そういうところがあるのだと想う。
それはしかし、自分で気づいたし、改善の努力はしての「今」だけれども。
まだまだ未熟だし、何事であれ、まだまだだ。
しかしこういった「なぜ?」は、
「嘆き」にしてはならない。
そこから「どうしたら出来るようになる?」と、
「生み出す(=出来るための)質問」に変換していく。
現状を嘆いてもしかたないし、
宮崎氏もこの著書で話されているのは、「嘆き」ではないと想う。
(かなり厳しい言葉はつかっていらっしゃるけれども。)
「なぜ?」と想う対象について、自分は自分であり、他者にはなりえないのだけれども、
イメージしてみる。
イメージできる時点で、判断をしていない。
(判断というのは、「あのひとはああだ、とかだめだ」と想う時点のこと。。。そういう言葉が浮かんだら、それに気づくことから順番に。)
出来ないことを、「出来ない」で判定せず、誰であっても
イメージを膨らませ、「なぜ?」から仮説を、導き出す。
「愛」と「優しさ」という言葉は表面上近しいけれど、ある箇所において、対局に位置すると感じる。
宮崎氏も養老氏も、
時に厳しい言葉を使われているけれど、その底に流れているものに、愛を感じます。
なぜ?の先に、気をつけたい。
目の前の物、人、すべてを、「判断」せず。
まず、受け入れる。
受け入れてからの「なぜ?」の先には、
必ず光。
愛。
命。
すべての根源。
それらは、かならず返ってきてくれる。
受け入れていきたい。
受け入れると、受け取れる。
ひろがるイマジネーションは、かならず私たちを、
助けてくれるから。
受け入れて。
やわらかな
眼差しで。
ひとりひとりの、きらめきで。