前回から引き続き

写真集から。
フレーズからの印象記~きらきら顔を創るスパイス♪-100828_2156~01.jpg

印象的な一枚の写真。流れ星




「にわか雨が道を光らせていたので、

おばあちゃんに立ちどまってもらった。

ポカラ地方の女性達はみんなシックですね。

パリのサンジェルマン・デ・プレなんかで真似しているけど、あなたがたのように本物じゃないので
妙につっぱっている感じです。

最高!
もうどうしようもなくエレガンス!」




私、

こんな女性とすれ違ったら、それは間違いなく、
「はぁ・・・」と、ため息をもらして立ち止まってしまうだろうと想った。。。



著者の浜野さんは、この方を「本物」と、感じたのらしい。

私は、ファッションの専門家ではないので、

本物かどうかということの見解は彼方。


「最高!
もうどうしようもなくエレガンス!」

そのフレーズにキュン。


最高!

でしょう。


「もうどうしようもなくエレガンス!」


エレガンス!

エレガンスって、「もうどうしようもないほど」があるのですね。

なるほどそれが「エレガンス」。


その時点でもぅ、

エレガンスを越えている気もするのだけれど。。

や、

そう想わせるものが、本物のエレガンスであるのか。



エレガンスって、そもそもなに・・・?

シックって・・・?


ねぇ私たちって、本物を知ってるの?

その言葉を、知ってるの?



私は知らない。

全然知らない。


だけれども、


感じることはできる。

その佇まいを。


その姿を捉えること。



そのひとが立っている。


それは佇まいということだけれども、


それは、何で構築されているものなのだろうか・・・

顔、

造作、

体、

装い。。。


まるで、その人の体の一部のような装いは、すんなりと佇まいになっていく。


浜野氏の書く「つっぱってる」ということはつまり、

すんなりとしてない、

「一部になっていない」ということなのだろうか・・・。


一部。。。


私たちは常に、一部である。

地球の一部でもあり、
一端でもあり、


地球号の船員の一部でもあり、
一端でもあり、


体を形づくる細胞たちは、一部であり、
一端。


つまり私たちにとって、一部であることは、宿命であるような。


なのに。


「私」という「意識」は「全体」を覆う。


いつだって、私たちは、「私」が「中心」であり、
まるで全体として生きているような気がする。


あぁ、神様、

と空を仰ぎながら、
その神様は、天上ではなく、心の中に。


事実。


心の中にあるから、ひとは、天を仰ぐのだ。


天を仰ぐその時、

一部は、全体となる。


一体となる。


すべてがしっくりくる。


つまりは、

そういうことではないかと思える。


しっくりくる装いは、すでに佇まい。

一部でありながら、すでに、全体。


雰囲気。

オーラ。

匂い。


魅了されるなにかを構築するものが見えないほどに、

私たちは、魅了されてしまうのではないだろうか。


思わず、目を留めてしまう、

凝視してしまうほどに、

強烈ななにかは、


実は、


とてつもなく自然であることに気付かされて。


我、愕然としながらバランスをとっていく常。


一部という存在は、

一部であるゆえに、バランスをとり続けて生き続けていくような。


なのに。


絶対的なバランスもなく。

ないのだけれどもあるのだというまた確信を、

その圧倒的な自然から、

その圧倒的な佇まいから、

学ぶのであった。



おばあちゃま。

その佇まいと、その顔に。


たったひとつにきらめきを見た。


私たちも、


たったひとりのきらめきを・・・キラキラ