前回の話はこちら↓

 

 

 

BGM私の青春時代からピアノの練習曲を選んでみました。

 

♪バッハ・インベンション第1番~第15番

 

 

シモーネ・ディナースタインさんという方の演奏です。ちょっと存じ上げませんが習ったのに近い演奏です。

バッハいいですよね。心が落ち着きます。長いこと練習したなぁ。私も時々、復習で1~15番まで通します。

 

 

青春時代と関係ありませんが、バッハと言えば、フジコヘミングさんのバッハが良かったので探してみました。

スタニスラフ・ブーニンのバッハも好きです。

 

♪主よ、人の望みの喜びよ 演奏フジコ・ヘミング

 

 

♪主よ、人の望みの喜びよ 演奏・スタニスラフ・ブーニン

 

 

 

さて、自宅出産の話に繋げるべく、前回に引き続き、私自身の青春時代を書こうと思います。

 

中学生時代に親の事情で転校した私。幸運にも優しい同級生に恵まれ、目立ったイジメにも遭わず、中学生後半も適当に過ごし終えます。この時、現在も交流が続いている二人の友人に出会います。一人は私と同じように親で苦労していて、周りに似たような境遇の人がいない中、環境を理解し合える、貴重な話し相手でありました。そしてもう一人は、絵と音楽と漫画で繋がりあえた相手でした。この友人が通っていたピアノ教室に、ゆくゆく通うことになります。

 

この中学時代ですが。これといったイジメはなかったものの、もともと九州育ちなもので、当時の同級生のただでさえ標準語でキツイのに、更に言葉が汚くて、これをシャワーのように毎日毎日浴びることが、とてつもなく苦痛でした。そしてこれが修学旅行の際に限界を超えて、爆発しました。笑 この時、ただひたすら大泣きしたのですが、誰かに意地悪された訳でもなし、立ち会った友人は、さぞかし驚いたことだろうと思います。キツイ標準語を浴びる地獄はもうしばらく私を悩ませます。

 

少し脱線しますが、当時お世話になった先生に、「38歳頃が人生で最高に充実している気がする」と話したことがあります。それを聞いた先生、「それって子育て真っ最中じゃん」と。「いやー子育て…してるかなぁ?」なんて話してましたが。もう、当時の予知であった38歳を過ぎているのですが、「それ、死期なんじゃ…」との可能性も考えていて、最近ドキドキしつつ生きながらえている私です。((((;゚Д゚))))

 

転校した年の冬、芸術繋がりで仲良くなった友人が、ピアノの発表会に招待してくれました。もう一人の仲良くなった友人と一緒に聞きにいきました。小さい頃からピアノは弾いていたのですが、まるでレベルの違う世界で、キラキラした演奏の数々に、すっかり心を奪われ、「ピアノって、こんな風に弾けるんだ!」と、衝撃の出会いを果たします。九州から関東へ引っ越した時に次ぐ、人生の転換期です。

 

そうして高校受験を無難に終え、進路が確定した春、満を持して憧れのピアノ教室に入門したのでした。そうそう、「マチコ」という名前も、この時、母親の再婚騒動が白紙になったことで苗字がまた変わった私に、この友人が考案してつけてくれたアダ名です。本名じゃないけど長いこと呼ばれて愛着があるので、ハンドルネームで愛用し続けています。

 

このピアノの師匠が独特なかたで、レッスンの仕方も、一般的な「一人30分」形式ではなく、指導室の他に練習室を設けていて、家でなかなか練習しない輩に練習の場を与えるという、斬新な発想で独自にシステム化してレッスンを運営されていました。このシステムに慣れるのにやや時間がかかったのと、最初に友人が至極丁寧に説明してくれたのを忘れません。

 

ピアノに惚れ込んでピアノと結婚したような人でした。それまで、特に母親の気ままで振り回されてきた私からすると、一本筋を通していて揺らぎない自分を持っており、世間一般ではなく、自分の哲学でもって生きている、その姿勢に、ピアノの技術も学びながら、妥協のない生き方に触れたことが、私にとって非常に大きな収穫でした。また、その教室に通われている生徒さん、その親御さんがとてもあたたかい人柄で、それまで私が知らなかった優しさのようなものを、与えて頂いたし、教えて頂いたと思います。なんて言うんだろう…「何もしない優しさ」「何も言わない優しさ」「同じ空間を同じ志を持つ仲間として共有するだけの優しさ」「きつい言葉を使わない優しさ」「見守るだけの優しさ」ここにいて傷つけられることは全くありませんでした。

 

「他人がどう生きるかじゃない。自分がどう生きるかだ!」

 

そう思うことに迷いがなくなったのは、明らかにこの師匠の影響です。

 

月日は流れ、高校を卒業し、悩んだ末、料理が好きだったことと、アトピーで悩んでいたことなどから、栄養専門学校に通い始めます。因みに、進路先を検討していた際、幕内秀夫さんの母校である東京農大も由々しきかな、一度見学に来ています。しかし、専門学校に通い始めた頃からアトピーが重症化してきたことを中心に、色々新しいことを始めすぎて辛くなってしまい、新しく始めた習い事を辞め、卒業と同時に始めたアルバイトを辞め、ピアノをやりたい気持ちと、栄養学の行き着く先に気づいてしまったことで、学校を辞めてしまいました。

 

これ、ぶっちゃけてしまおうか。

 

当時、私に専門学校を辞めさせる決定打となった、教員の一言がありました。それは、

 

「栄養指導を受けた人より、栄養指導を受けていない人の方が、残念ながら(?)長生きしている」

 

という言葉です。

 

オイオイ、それってダメだろうよ。私の中でガラガラと何かが崩壊した瞬間でした。

 

最後まで通った方がいい。そう考えもしましたが、嫌!と思ってしまった空間で時間を重ねてしまうと、その時間に得られることを逃してしまうと思い、どうしても続けるのが嫌になってしまいました。そこから空白の1年間が始まります。

 

空白の時間ができ、幼少期に別れた九州の実父から、空いた時間があるならこちらに来て運転免許でも取りなさいと、一緒に住まわせて貰うことになりました。「ここでこうして、曲がるとよ」「こうやれば、こうできるっちゃろ?」高速道路教習は、すれ違う車が2台のみ。あとは山、山、そして月。九州訛りに癒される時間でした。そして家で過ごす間、インターネットで遊ぶことを覚えました。お絵かき掲示板で絵を描いて遊び始めます。そこで新たな友人を見つけます。その時、インスピレーションが入ります。「四国あたりの地方で、女性で一人暮らしで、凄く楽しそうに笑って遊んで暮らしてる」という図です。私はこの知り合った友人の姿だろうと思っていましたが、これ、後の自分の姿でありました。予知です。

 

教習期間を終え、関東に戻り、住民票の担当区域で無事に免許も取得し、お絵かきして遊んだり、お菓子を作って小遣い稼ぎしたり、ブラブラした日々が続きます。お絵かき仲間で関東圏の方とオフ会したりもしました。しかし一番本命で興味のあったかたの住いが四国で、そこそこ気の合う人でも実際に会うと楽しいのに、本命で気の合う人はどれほど楽しいのだろう?そんなことを思っていました。因みにこの人は、ダイヤの原石がどんどん磨かれてどんどん輝いていくかのように、絵の腕がめきめきと上達していき、気づいたころには雲の上の人のような存在になっていました。笑

 

そんな中、またも衝撃の出来事が私を迎えます。

 

私がピアノの師匠についた頃、師匠の師匠にあたる方が、高齢でしたがまだ現役で演奏活動を続けておられました。CDを購入して聴いたりはしていたのですが、まだ演奏活動されているし、いつか生演奏を聴きにいかねば。長らくそう思いながら日々を過ごしていました。

 

その師匠の師匠が、亡くなってしまったのです。私が二十歳の頃でした。

 

しまった!と思いました。どうして亡くなる前に演奏会を聴きにいかなかったのかと、それは後悔しました。

 

この時、私は気づきます。

 

相手が死んでも、自分が死んでも、会うことはできない。

相手が生きているということ、自分が生きているということを、蔑ろにしてはいけないのだ。

 

物凄くショックでした。雷にドカーンと頭から胸まで打ち抜かれたみたいでした。

 

師匠の師匠は、ピアノの素晴らしさを伝えてくれたということ以上に、私にとって、生きていることの大切さ、生きていることの意味を、教えてくれた人となったのでした。このことが、私の行動力の源と、今後なっていきます。

 

そこから少しずつ停滞していた時間が動き始めます。

 

不定期の仕事を少しずつ始め、社会に出て働くようになりました。その流れで、運良く長期雇用をして頂ける仕事を貰えました。そうして貯めたお金で、暖かな春の季節、本命の四国の友人に会いに行きました。飛行機で四国上空に近づいた時、その山々の美しさに、すっかり見惚れていたのを忘れません。墨絵のような、大変に風流な景観でありました。そして念願の友人との対面です。やはり特別に素敵な人でありました。桜を愛で、菜の花を愛で。訛り言葉に癒され。あちこち観光して帰路につき、「いつか住みたい。」心に小さな夢が灯りました。

 

それまでずっと実家暮らしをしていました。超がつく小心者の私。進学と同時に上京するなんていう類の度胸はこれっぽっちも持ち合わせておりません。知らない土地でいきなり一人暮らしを始める度胸はありません。慣れ親しんだ土地でお試し期間を設けてみるのはどうだろう?そんなことを考えておりましたら、実家のすぐ近くに、新しいアパートが建設されました。もう目と鼻の先の距離です。ノミの心臓の私は飛びつきました。この安全圏なら一人暮らしに挑戦できる!私はこの建物の1番目の契約者になりました。入居可能日の2か月前の段階でした。

 

これは最近気づいたことなんですが。この時の契約日・引っ越し日、実は、ピアノの師匠の師匠にあたる人の亡くなった日の、ちょうど2年後の命日にあたっていました。これも偶然にしては出来過ぎていて。これは私が勝手に思っていることですが、師匠の師匠は直接存じ上げませんし、演奏会も行けませんでしたし、ピアノの腕も足元にも及びませんが、私が受け取ったことを私はとても大事にしていて、これが天に通じていると考えています。師匠の師匠が応援してくれてるのだと思います。人生の大きな門出の日が、衝撃を与えた人の命日であるという。調べて気づいたの、本当に最近です。逆に、よう今まで気づかんと来てたな。

 

さて、そんなこんなで、小心者の私は、自分の夢を遂行するのに、自らに条件を三つ課しました。一つは、二年間生き延びること。生きてないと実現も何もありません。二つ、二年間自活をやり遂げること。三つめは、秘密です。結果、約二年後に、これら三つの条件をクリアしました。その間、二度目の四国旅行に訪れるのですが、この時は、新しいお絵かき仲間との交流もあり、前回より一泊多く過ごしたせいか、関東に戻った時にカルチャーショックで…。もともと九州育ちで西言葉が故郷のため、標準語で、しかも昨今の言葉の乱れでキツさを増して音色として強烈に聞こえてしまうため、四国旅行で耳にしていた柔らかい方言が忘れられなくて、心をズタズタに引き裂かれる思いで、日常に戻っていったのを覚えています。

 

条件をつけた「二年」の終わりが近づいた頃、うまく四国での住まいを見つけることが出来ました。そのままトントン拍子に事が進んで引っ越しが済み、仕事にもありつくことができ、なんやかやと四国での生活が始まります。私が引っ越す少し前に結婚した友人。親ほど離れてないけど、兄弟よりは年が離れており、友人夫妻には、友人なんだけど、親のような、兄弟のような、ペットのような?何しろご家族皆さんに可愛がって頂き、今でも本当に感謝しています。四国のあちこち案内して頂きました。

 

子供の頃に夫婦仲の悪い両親の姿を見てきたことと、幼少期からアトピー性皮膚炎を患っていたことから、異性との恋愛に夢を抱くこともないし、結婚に対しても絶望していたのですが、ピアノ教室で人の優しさに触れたこと、四国で友人家族に親切にして頂いたこと。これらのことから「結婚」に対しての意識が相当変わりました。ちょうどその頃、「32、33才頃には結婚していて、ピアノを弾いてるところに旦那さんが帰宅する」というインスピレーションが入ります。予知です。

 

結婚することに加え、子供を持つことに関しても、江原啓之さんの書籍を読んで、少し考えが変わってきました。それまでは、こんな世の中に子供を産んでも可愛そうなだけと思っていました。それに対する江原さんの答えは、「今は、こんな社会でも生き延びれる強い魂の子供たちが生まれています。だから心配しないで、女性に生まれたのなら、子供を産むことを考えてほしい」こんな感じの言葉でした。実際、生まれた子供を見ていると、確かに私より強い心を持っているな、と感じます。

 

そうそう、高校卒業とともに重症化したアトピーでしたが、二十歳頃に、肥満・ニキビ・アトピーの三重苦を克服された園山真希絵さんを知り、彼女に学んで、玄米、豆などを積極的に摂り、添加物や脂っこいものを避ける、という食事を心がけて、改善していきました。

 

 

これです。恩のある一冊です。こちらは2007年の発刊となっていますが、初版は2003年です。

園山さんのビフォーアフターを受け、「私もシンデレラになれるのかもしれない!」とは思ってませんが、それくらいの衝撃は間違いなくあったと思います。

 

実家を出たことで、物の管理と掃除を自分で徹底できるようになったことも、アトピー改善に繋がっているように思います。実家を出るとアトピーが治る話は割と聞きます。あれなんなんですかね。不思議です。

 

独身時代に自堕落な食生活に陥らなかったのは、自分が女で産まれた以上、好む好まざるに関わらず、将来妊娠する可能性がゼロではなく、もし妊娠した場合、私が乱れた食生活を送ったせいで子供に異常が出てしまっては、可愛そうではないか?それって子供に申し訳ないよなぁ。そう考えると自ずとブレーキがかかり、暴飲暴食することはありませんでした。この頃から食事に気を使っていたことも、後の自宅出産を踏み切る理由のひとつに繋がります。

 

「四国あたりの地方で、20代で、女性で、一人暮らし」というのが、自分の夢として叶いました。これは、単純に「カッコイイ」という憧れがひとつ。もうひとつは、自分は色々あっても親の加護の元で過ごせているけれど、世の中、本当に身寄りがなくて親戚もなく一人で生きている人というのはいるものだ。もしそのような人と対峙した時に、臆することなく対等に話が出来るだろうか?否、私は対等に話ができるような人間でありたい。そのためには、親が守ってくれている環境で甘えていてはダメだ。親に頼らず「一人で生きる」ということを充実させて、基本に据えて10年くらいやってみせねば。

 

四国での生活が4年を過ぎた頃、勤めていた仕事先で行き詰まり、辞職する決断をします。そして色々考えた結果、上京する決意をします。28才の頃です。

 

次回に続きます。