わかりやすい言葉にとびつき、物事を

単純化していないか。そのことによって

大きな問題が見えなくなる。

 

考える力が弱いのは日本社会全体に見られる

症状だ。

考えることは問うことに基づいている。

 

考えが漫然としているのは問いが漫然と

しているからだ。

問いの質と量が思考の質と量を決める。

考える力をつけるために重要なのは

「問う力」だ、と哲学者の筆者は説く。

 

うわさ話に対して距離をとり、誹謗中傷を

しないでおきたいのであれば、自分の正しさを

常にどこかで留保し、自分は正しくないかも

しれない、と思っておくことだ。

 

人を批判したくなったら、正義のためではなく

快楽のためにそうしようとしているのではないか、

と、一度は自らに問いかけることだ。

 

思い込みはポジティブであれ、ネガティブであれ、

正しいことを知るために問うことがない。

それが思い込みである限り、自分が信じている

ことを疑う余地がないからだ。

 

思い込みを乗り越えて、正しいことを知るため

には、いったん冷静に自分に問いかける必要がある。

本当にそうなのか? それは思い込みではないのか?

 

そこで必要なのは謙虚さと公平さである。

真理の追求においては、それは頭の良さより

ずっと重要なのだ。

知的であるがゆえに傲慢で独善的、偏見に満ちた

人はたくさんいる。

(アメリカでトランプに心酔する高学歴者ですね)

 

聞けば聞くほど、読めば読むほど、わからないことが

増える。こうした明確な答えにたどり着くことなく

問い続けるのが、考えるための問いの特徴である。

 

それは必ずしも答えに至ることを求めない。

知らなくても、理解していなくても、問うことは

できる。分かっても分からなくても、考えることは

できる。

 

だから考えることは、知ること、理解することより

自由である。考えることができるというのは、

誰にとっても、自由であることのもっとも確かな証なのだ。

 

他方で、考えることは、自由だからこそ、適正な程度が

はっきりしない。

自由に考えを巡らせて、楽しいならいい。しかし、

考えるというより、悩み苦しみ、深みにはまって

抜け出せなくなったり、人と付き合えなくなったりする。

 

自由であるがゆえに不安定。この二面性がもっとも

よく表れるのが思考の一種である「想像」だ。

 

重要なのは、やはり問うことである。問うことなく

想像すると、それは容易に思い込みになる。

そうなるとそこから抜け出せず、かえって自由を失う。

 

私たちは苦しみたくないと思う一方で、何よりも

苦しみに執着しやすい。

(過去の失敗などを問わずにはいられない)

 

過去を問うことは、自らを下げるか上げるか、

傷つけるか癒やすか、否定するか肯定するかの

どちらかに傾きやすい。それは人間の性だから

仕方ない。その背後にどういう動機があるのか、

どんな目的のために問うているのか自問するといい。

 

自分の罪を消し去るためか、自分を正当化するためか、

現実を見ないようにするためか、他者を批判し排除する

ためか、自分を慰めて平穏を取り戻すためか。

 

動機や目的に自覚的になれば、肯定か否定かのどちらかに

偏らなくてもよくなる。

人間は罪があったらいけないわけでもなければ、

称賛がなければいけないわけでもない。

 

過去を考えることで私たちは自分をより俯瞰的、相対的に

見ることができ、より公平で自由になれる。

 

問うことは目的と結びついているとき、

より意義あるものとなる、と筆者はいう。

筆者があげる4つの目的は、

知ること、理解すること、考えること

(想像すること)。

そして最も重要なのは4つめの、自由になることだ。

 

私たちはいろんなものに縛られ、囚われている。

問うことの最も重要な意義は、そこから自由になる事だ。

 

縛るものとして筆者があげるのは、

常識、偏見、苦しみ、無知

 

例えば漢字が読めない人を目の当たりにすれば、

吹き出したくなるかもしれない。

こんなことも知らないか、とはならず、逆に

こう問うてみよう。

 

こんなことを知っていて何になるのか

誰にとっての常識なのか

知らないと何か困るのか

知らないことを馬鹿にすることにどういう

意味があるのか

 

常識の側にいる人は、自分がマジョリティ

というだけで自分が正しいと思っている。

だがそれは思考停止だ。

たんに「みんなそう思っている」だけで

みんな間違っているかもしれない。

 

偏見は無知と表裏一体である。無知から

解放されることは、偏見から解放される

ことである。差別から距離を置くことができ、

より公平な態度をとることができる。

物事を決めつけたり、分かっていると

思い込んだりしなくなる。

 

「無知の知」とはそうした自由さなのである。

分かった、と思っているときこそ、「本当は

分かっていないのではないか」と自問すべきだ。

 

自分の知識や理解の外に出て、自分を外から

見つめ直すことは、自分の限界を超えることである。

それは必ずしも心地よいことではない。むしろ、

恐ろしい、つらいことだ。しかし、そこには自由がある。

それを得るために必要なのは、問う勇気である。

 

何を問うのか

 

意味を問う

自分のしている意味を問うのは、動機や目的や結果が

失われ、自分に向き合わざるをえなくなった時である。

普段、生きている意味を問わないのは気にしていない

からで、意味があるからではない。

 

だから改めて問うと「生きている意味がない」

という結論になりかねない。

けれども、別に意味がないからといって、

生きるに値しないわけではない。

意味などあってもなくても、生きていればいい。

そう構えていれば、そのうち意味が見つかることも

あるし、あっても気にならなくなる。

 

問いの種類

意味を問う

本質を問う

理由を問う

方法を問う

状況を問う

関係を問う

事例を問う

要点を問う

意見を問う

真偽を問う

 

問いの方向を決める

大きく分けると1方向と多方向

一方向の問いは、前に進む、後ろに進む

上に進む、下に進む、の4つに分けられる。

 

多方向の問いは、比較する、違う視点からみる

反対の立場から見る、時間軸を移動する、

空間軸を移動する、が挙げられる。

 

前に進む問いとは、「それでどうするか」「だから何なのか」

例えば「あの人は感じが悪い」といわれたら、

「だから何なのか」と問うてみたらいい。

「これは絶対許せない」というひとには

「それでどうするのか」問うといい。

 

「ひとりひとりの意識をかえないと」という

意見も不毛だ。何が必要か言っていない限り、

何も言っていないことと同じだ。

「それでどうするのか」と問うことで、

その先に問いを進めることができる。

 

問いを後ろに進めるとは、由来や経緯、理由や

原因を問うことだ。

すぐに結論に飛び付かず、いったんとまって

冷静に考え、物事をより深く理解するための

問いである。

 

もっとも気をつけなければならないのは

その人や集団の資質の問題にしてはならない、

ということだ。例えば、ロシアが戦争を

起こしたのはプーチンが正気を失っているから、

という理屈はたんなる形容、言い換えであり、

同語反復だ。

 

問いを上に進めるとは、物事を大局的に見ることだ。

例えば自分が病気や貧困、差別など苦しい境遇に

いるとき、「世の中には同じような境遇の人が

どのくらいいるか」と問うと、他にも似た境遇の

人がいることがわかる。そうすると孤立の問題が

解消する。

 

下に進めるとは、意味や理由、根拠や方法を問うことだ。例えば

ルール違反が多いことが問題である場合、その条件は何か問う。

その答えは「ルールを守らない人が多い」ではない。

その条件となっているのは「ルールが存在していること」だ。

 

だからルールを減らせばいい。そのために「なぜこのルールが

あるのか」「このルールは絶対に必要か」を考えるのである。

ルールを厳格化すると、むしろ違反が増えることが多い。

 

反対の立場から見る

ルールを守らない人は処罰すればいい、というのは

そのルールをよしとする側の論理である。

ルールによって不利益を被ったり、抑圧されたり

している側から見ると、ルールは全く自明ではない。

 

ルールによっては守らなくても、大した混乱や問題は

起きないかもしれない。

自分の立場を信じて疑わず、相手の立場から物を見よう

としないのは、自己中心的で横暴な思考停止に過ぎない。

 

どうすれば〇〇がうまくいくか、と私たちは悩む

そんなとき「うまくいくとはどういうことか」

問うてみよう。

 

もしかしたら、「うまくいく」はトラブルや滞り、軋轢と

矛盾するものではないし、ひょっとすると望んだ結果に

なることがいちばん大事なわけではないかもしれない。

いちばん大事なことがわかれば、イベントでも仕事でも

恋愛でも、もっと柔軟に、問題があってもなくても、

結果がどうあれ、うまくいく可能性がある。

 

小さな問いから大きな問いにいくことで個別具体的な

問いも明確に方向づけることができるようになる。

 

苦しみが問いによってもたらされることがある。

苦しい問いをどう止めるか。

問題があっても、問題だ、と思わないことだ。

問題が起きたことに良いも悪いもなく、たんに

「問題が起きた」、それだけのことだ。

ただの問題のままにしておけばいい。

 

失敗をしたらあやまればいい。さらにできることが

あればやればいい。なければあきらめるしかない。

 

平静になることなど不可能で問いを止められないこともある。

たえがたい理不尽に見舞われたら「なぜ」と問わずには

いられない。

 

そんなときに唯一すべきことは、問いに答えを求めるのでなく、

問いから逃げるのでもなく、ただ問いのまま受け止めること

だ。できればだれかにただ聞き届けてもらう。

そうすることできっと、問いと苦しみに、いわば「尊厳」

を与え、その人の人生のうちで落ち着くべき場所を

見つけることができるのである。