スタンフォード式

人生を変える運動の科学

 

アリゾナ大のデイヴィッド・ライクレンはトレッドミルの

前後に参加者たちの採血をおこない、内因性カンナビノイドの

血中濃度を調べた。30分のウオーキングは効果がなかった。

全速力で走った場合も効果はなかった。

 

ところがジョギングの場合、内因性カンナビノイドの血中濃度は

3倍も上昇した。ランナーズハイは快感をもらたすのだ。

(内因性カンナビノイドは大麻のように苦痛を緩和し、

気分を向上させる効果がある)

 

よくジョン・ビンガム(作家、市民ランナー)の名言を

引用するんです。「ゴールしたときが奇跡ではない。スタート

ラインに立つ勇気をもてたことが奇跡なのだ」。

最初の一歩を踏み出すために、ほんの少し勇気を出せたなら、

すべては変わるんです。

 

運動は気分にさまざまな影響をもたらすが、なかでも脳の

報酬系におよぼす影響は、ほぼ確実に抗うつ作用につながっている。

運動は自分でできる脳深部刺激と考えてもよいだろう。

運動をしているとき、あなたは脳の報酬系に低レベル電圧を

供給しているのだ。

 

週3回の運動を6週間続けると、不安を軽減する脳の領域の

神経結合が増える。定期的な運動によって神経系のデフォルト

状態が調整されると、バランスがよくなり、闘争・逃走反応や

恐怖反応が起こりにくくなる。

 

運動の代謝副産物である乳酸について、最近の研究では

メンタルヘルスに対する効果を示唆している。筋肉から分泌された

乳酸は体内の血管をめぐって脳にたどりつき、神経系統に作用し

て不安を緩和したり、うつ病を予防したりする効果があるのだ。

 

どんなフィットネスプログラムも似たような要素の組み合わせで

集団的なよろこびを経験できるようになっている。人とのつながりを

求めるのが人間の本能である限り、私たちはこれからも一緒にからだを

動かし、汗をかく場所を求めてやまないだろう。

 

歴史家のウィリアム・H・マクニールが述べているとおり、

「一糸乱れぬ動きをすることで高揚感を覚える反応は、我々の遺伝子に

深く組み込まれているため、我々はそういう高揚感を求めずに

はいられない。これはコミュニティーを築いて維持するために、

我々が利用できるもっとも強力な方法なのだ」

 

ハーバード大医学部教授のジェローム・グループマンは、希望を

「心の眼で、よりよい未来へとつづく道を見るときに経験する

高揚感」と定義している。

 

アスリートが競争する姿や、ダンサーの踊る姿や、子どもの遊ぶ姿を

見ていると、あなたは無意識のうちに、それを自分の動作のように

感じている。他人の動く姿を見ることは、ただの視覚的経験ではなく、

理屈抜きの本能的な経験となる。

 

不安なことを何度も考えたり、自己批判を繰り返したりしていると、

報酬系がそうだ、もっと考えろ」とあおり始める。過去のことを

蒸し返したり、くよくよ悩んだりすれば何かいいこと(報酬)が

ありそうだ、と脳が思い込んでいるような状態だ。

 

デフォルト状態を沈静化させるための最も効果的な方法のひとつは

瞑想だ。呼吸に集中すること、瞑想すること、マントラを唱えることは、

いずれもDMN(デフォルト・モード・ネットワーク)の中心部分を

非活性化させることが脳画像検査によって明らかになっている。

 

ジェニファー・ファー・デイヴィスは著書「持久力の追求」において、

自分が学んだ最も重要なことのひとつは「苦痛を取り除かなくても、

前に進むことはできる。私たちの人生で味わう痛みは完全に消えること

はなく、潮の満ち引きのごとく永遠に繰り返す。そんななかでも進歩する

ことはできるし、人生がそれほどつらくない時期をありがたいと思うこと

ができる。そしてつらいときは、祈ったり、泣いたり、もがいたりすれ

ばいい」と述べている。

 

ウルトラマラソンのアスリートたちが学んだのは「いま、この瞬間」に

集中することだった。先のことを考えすぎて不安に押しつぶされないよう

に注意したのだ。もうだめだ、と思ったときは、目の前のあと1周、

あと1マイル、あと1歩に集中した。

 

2015年、ベルリンの宇宙医学極限環境センターの科学者たちは、

ユーコン・アークティック・ウルトラに参加したアスリートたちの

追跡調査をおこなった。血液中のホルモンを分析したところ、

イリシンというホルモンの数値がきわめて高いことがわかった。

イリシンは体脂肪を燃焼させる代謝機能で知られているが、脳にも

強力な効果をもたらし、天然の抗うつ剤としての効果もある。

 

イリシンは「運動ホルモン」とも呼ばれ、新規マイオカインとして

知られる。マイオカインは筋肉中でつくられ、体を動かしているとき

血液中に分泌される。最近のもっとも画期的な発見は骨格筋には

内分泌機関としての働きがあるとわかったことだ。筋肉は副腎や

下垂体のように、体内のすべてのシステムに影響するたんぱく質を

分泌している。そのひとつがイリシンだ。

 

2018年の科学論文では1時間のサイクリング中に大腿四頭筋から

分泌されるたんぱく質は35種類もあることがわかった。科学者たちは

現在、運動の長期的な健康効果は、筋収縮によって分泌される有益な

マイオカインの効果によるものと考えている。

 

運動誘発性のマイオカインをいち早くとりあげたある科学論文は

それを「希望の分子」と呼んだ。持久系アスリートは「とにかく一歩

ずつ足を前に出す」という言葉をよく口にする。一歩ずつと思えば前進

できるのだと実感することで自信と勇気が湧いてくるから。

 

ところが「希望の分子」の存在によって、それがたんなる思い込みでは

ないことが明らかになった。筋肉から、希望が生まれるのだ。

一歩進むたびに、体内ではマイオカインを分泌する筋肉が200か所以上も

収縮する。体を前進させる筋肉は脳にたんぱく質を送り、

レジリエンスをもたらす脳内化学物質を活性化させる。

 

私たちは体を動かすことによって喜びを覚え、自分らしさを見出し、

人とのつながりや希望を感じる。運動以外の手段でもこのような効果を

得ることはできる。けれども、運動は人間の多様なニーズを満たせる

という点で優れており、だからこそ根本的な価値ある活動として

一考に値するのだ。

 

運動によって私たちの最善の部分が引き出されるのも、幸せな気分に

なるからだ。いっときのうれしさや誇らしさだけでなく、深い意味

での幸福を味わうことができる。それは目的意識をもって努力できた

ことや、よい仲間に恵まれたこと、自分よりも大きな存在とのつながりを

実感できたことによる幸福感だ。そのような幸福感は、希望と呼ぶのが

もっともふさわしい。

 

哲学者のダグ・アンダーソンは「運動が人生にもたらす大きな変化は、

私たちが運動のすばらしさに目覚め、自分がやっていることにしっかり

注意を払っていけば、誰にでも体験できる可能性がある」と述べている。

決まった訓練方法もなければ、唯一の道筋も処方箋もない。

ただ、自分の喜びに素直にしたがうだけだ。

 

それでも指針がほしいなら、とにかく動くこと。どんな運動でも、

どんな量でも、かまわないから、自分が楽しいと思うことをしよう。