音声言語と文字言語の絡み合いは一つの幻想的で朦朧とした世界を生み出し、紡いでいく。声に出して朗読すれば、朗々とした揺蕩うリズムと抑揚が時空を支配し見えている景色を一変させる、そこに置かれた文字に着目すれば文字に秘められた映像が言葉の枠を飛び出し、また幾重にも抒情の結晶を重ね合わせ、無限に反応し合い、新しい情景が織られていく。
漢字は生まれた瞬間からすでに現代人の想像を遥かに凌駕する意味と概念を付与されていた。それは体系化された記号群の中にあって、さらなる地位と形式を加えられ、それは現代まで続いている。将来、一つの詩が持つ映像とそこに含まれた物語を解読しようとする人間が現れた時、その作業は一体どれほどの時間を費やすものになっているか、もはや想像することも難しい。
李商隠(811-858)は典故、比喩、象徴を駆使した技巧を凝らし、艶詩に当たらな息吹を吹き込み、恋愛しにまで高めた詩人と言われている。彼の詩の中では魂は現在と過去を自在に移ろうのにおぼろげな一瞬が永遠と交わる時空を通過し、抒情の結晶を吐き出しながら天空へと駆け上がり、地の底へと沈んでいく。醸し出す陰影は複雑な形を為し、見るものに眩惑と陶酔を与える。
神が幽暗を好むように、人の魂もまた暗がりの中に平安を見出す。それ故に人は悲哀や絶望、慟哭の中に身を沈め、不条理な世界からその身を隠す。自ら身をひそめた影から顔を覗かせ、不条理が去ってしまったことを確認した後で、再び笑いどんちゃん騒ぎを起こすがいい。
艶詩と恋愛詩の違いについて簡単に叙述しておこう。艶詩とは単純に言えば男目線で女を眺めたものだ。それに対して李商隠の恋愛詩は明らかにそれとは異なる表現を用いている。李商隠の詩は恋愛の対象となる女性の心の中で生まれる抒情と表現である。作者が女なのか男なのかすらもはや不明であり問題とはなっていない。男から見る女と言う一方的で固定的な視線は解消されている。自身の中に耽溺し、自らの恋の苦しみを客観的に捉えようともしているとも言えるのか。
「錦瑟」(きんしつ)
錦瑟無端五十弦 一弦一柱思華年
荘生暁夢迷胡蝶 望帝春心託杜鵑
滄海月明珠有涙 藍田日暖玉生煙
此情可待成追憶 只惟當時己惘然
読み)
錦琴(きんしつ)端(はし)も無く五十弦 一弦一柱華年を思う
荘生の暁夢(ぎょうむ)、胡蝶(こちょう)に迷い
望帝の春心杜鵑(とけん)に託す
滄海(そうかい)月、明らかにして珠に涙有り
藍田(らんでん)日、暖かにして玉、煙を生ず
此の情、追憶を成すを待つ可けんや
只(た)だ惟(こ)れ当時 己に惘然(ぼうぜん)
語1)瑟は弦楽器の一種。弦の数は二十五である。その「史記」孝武帝本記に見える伝説によれば遥か昔、素女が奏で瑟は五十弦であったが、あまりに悲しい音を奏でるが為、泰帝(たいてい)がその数を半分の二十五弦に減らしたのだと言う。泰帝とは伏羲(ふっき)のことである。錦瑟とは彩りを施した瑟を指す。
語2)無端 わけもなく。これと言った理由もなくと意味の語。発語者の理解を超えた事態の意外さを表す。李商隠は作品にこの語を投入することで判断の停止と不確かな領域に足を踏み入れるかのような展開になる事を好み、この語をよく用いる。
語3)荘生とは荘子の事。子は仄声(そくせい)である為、平声の生に言いかえている。「荘子」斉物論編にある話を基にした句である。荘子は夢の中で己が胡蝶となり、自在に空を飛びまわっていたが、さて夢から覚めてみると自分は相変わらずの自分であり、そのことに戸惑いを覚えた。果たして人間である自分が胡蝶となる夢を見ていたのか、はたまた胡蝶である何者かが人間である荘子となっている夢を見ているのか判断がつかなくなったと言う。
語4)望帝は古代蜀の国王。名を杜宇(とう)と言った。望帝は臣下の妻と通じたことを恥として、死を選んだが、その後、杜鵑(ほととぎす)に生まれ変わったと言う伝説がある。杜鵑は血を吐きながらさえずるとも言われており、その鳴き声の壮絶さは死を連想させる。
語5)春心とは恋情を指す。梁の元帝の「春別応令」詩に「花朝 月夜 春心を動かす 誰か忍ばんや
相思うも相見(あ)わざるに。」とある。先の句である荘生とこの望帝の句は人が人ならざるものに変化する内容によって互いに対を為している。
続)
