「繁栄の法則 その二」よりご紹介させていただきます。

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秋の小学校の運動会の出来事でした。



熊本の田舎の小さな小学校の運動会はつい最近まで村の一大行事。



まだ朝早くから席取り行事がさかんで、大勢の村人が運動場をわんさと囲んでわが子の応援に熱を入れて大騒ぎです。



そんな中、五年生の男の子の徒競走がありました。



一人の男の子がダントツぶっちぎりの速さで一番でテープを切りました。



会場は盛り上がり、「ワー格好いい」と大拍手が起きました。



その後は小三の女の子が五~六人ずつ一組で走りました。



二つ目くらいのグループがスタートした時、一人の女の子がよたよたと走り、カーブで転んでしまいました。



膝をすりむいたようで、やっと立ち上がった時、手と膝から血が出ていました。



運動会の会場は応援の歓声がやみ「シーン」としてしまいました。



同じグループの子供たちはもうほとんどゴール近くまで走っています。



「どうするんだろう。走るか、やめるか・・・」と皆が固唾をのんで見守っているのが感じられました。



女の子は立ち上がり、血のにじむすりむいた足をひきずりながら、そして泣きながらよたよた走り続けたのです。



途中、「がんばれ、よしこ!」と声がかかりました。



その子が足をひきずりゴール近くまで走ると会場は再び固唾をのんでシーンとしてしまいました。



一瞬、時が止まったあと、その子がゴールに倒れこんだ時、会場は拍手とどよめきと感激に大揺れになりました。



お母さんたちは感激して涙をふいている人もいました。



私は未だにこの二つのシーンが忘れられません。



私は思います。人生もこれでいいんだ。



もちろん一番で格好良く走るのもいいでしょう。



でも神が望んでいるのは足が遅くても、ドンべでもいい・・・生きるのが下手でも誠実に「走りきる」ことなのだと思いました。



人々は一番で格好良く走ったシーンよりも、転び泣きながら人生を恥ずかしく思いながらでも、走り切った足の遅い子に大拍手と大応援をしたのです。



この子は観る者に勇気と力をくれました。



「ドンべでもいい、誠実に走り切ること(やり切ること)なのだ」という神の言葉を皆にもたらしたのです。



生きることは下手でもいい、傷つくこともある、でも目ざすものがあれば、失敗しても再び立ち上がればいい・・・やり続ければ世間は必ず応援します。



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繁栄の法則 その二


北川八郎 著


致知出版社より

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損得で走り始めたら、損と思ったときに走るのを止めてしまいます。



志で走り始めたら、結果に関係なく走り続けます。



誰かを喜ばせようとしたときを例に挙げてみましょう。



誰かが喜んでくれたらいいけど、喜んでくれないから喜ばせるのを止めた人と、



相手が喜んでいるか喜んでいないかにかかわらず、喜ばせ続ける人がいたとして、



どちらが正解、不正解はありません。



しかし、人は後者の人を信用し、後者の人と共に生きたいと思うでしょう。



「心」に重きを置いているから。



ゴミ拾いやボランティアを続けて、誰に褒められるわけでもなく、時には「偽善者」と陰口を叩かれ、それでも誰かの喜びに繋がればいいと続けている人の目の奥の輝きは、損得で生きる人のそれとは全く違います。



そして、人はそれに気づきます。



どこか信用できない人というのは、言葉の端々で「損得勘定」じゃなく「損得感情」が出ているのです。



“生きるのが下手でも誠実に「走りきる」こと”を大切に、ですね。