もう10数年前のことになるが、「現在は浅草にある懐石料理・草津亭は明治の初めには駒込神明町にあったらしい」ことを知った。知人の鶴岡さんが代表を務めるNPO法人の主催で「在原業平は隅田川の何処を渡ったか」をテーマとするイベントが開催された折のこと。会場を借りての講義は妻が受け持った。その後隅田川に架かる桜橋近辺を散策し、最後に浅草の懐石料理店「草津亭」での会食となった。その折、妻は「草津亭は明治5年駒込神明町で産声をあげ、・・・」と書かれた掲示版を見たそうな。
 この話に興味を抱いた私は「草津亭は駒込神明町の何処にあったのか」を調べるため、かっては神明町と呼ばれた現本駒込5丁目付近を歩いた。駒込神明町は遊里のあった街。現在でも神明三業地とも呼ばれることがある。
 神明町のいわれは天祖神社が江戸時代には神明宮と呼ばれたことにちなむ。町の範囲は富士神社と天祖神社を含む一体と、不忍通りの北側。いずれにせよ私の日常生活の地域。そこに大きな花街があった。
 『東京 花街・粋な街』によれば、この花街は昭和4年以降短時間に急速に発展したらしい。芸妓屋78軒、芸妓202名、料理屋21軒とある。主な料亭には「伊豆栄」や「次郎長」などの名が挙げられていたが「草津亭」の名はなかった。戦前の最盛期には芸妓400人もいたらしいが、昭和20年4月と5月の大空襲でこの辺り一帯は六義園を除いて全て焼失していた。






 最近まで何度かこの付近を探索したが、今では往時を偲ぶものは何もない。「をどり」の看板の架かる一軒があるいはその名残か?
ネットでも調べたが、その場所は全く分からなかった。そのまま、年が流れていった・・・。







 今年に入り、「文京ふるさと歴史館」友の会々員となり、その縁で、平成22年の展示企画に「文京にあった温泉!?―駒込草津温泉場―」があったことを知った。早速、資料の有無を聞くと、この展示の資料はないが、平成24年度特別展『近代医学のヒポクラテスたち』には駒込草津温泉場が登場しているとのこと。早速図書館から借りてきて読むと、草津亭ではないは、駒込蓬莱町に「草津温泉場」があったのだった!(以下次回に)