明治から大正・昭和にかけて、文京区にも牧場があったとの話を何かで読んだ記憶があった。巣鴨病院の跡地に建てられたという府立5中の現小石川高校を訪ね、古い資料を見せてもらった折に同窓会発行『小石川検定』に「上富士前にあった牛舎も校舎地の候補だった」の文章にも接していた。今また『氷川下町会史』で、氷川下に「興真舎牛乳店」があったことを知った。



 「文京区にはかつて、32個もの牛舎や牧場がありました。その1つが興真舎牛乳店です。明治39年(1906)、興真舎牛乳店(後に興真牛乳株式会社)の牧場と本社工場は、白鷺坂の南側、千石3丁目から大塚4丁目にかけて今の智香寺の奥まで広がっていたそうです。」と書かれている。

 白鷺坂とは春日通りから猫又橋へ下る坂で、「興真舎」が氷川下にあったことが分かる。明治時代の地図にも興真舎の記載があり、現地図でその位置が特定出来る。いつ頃だったかは思い出せないが、はるか昔興真牛乳を飲んだことがあり、懐かしい名前で、その場所に行ってみたくなり、12月11日の早朝散歩で出掛けていった。










 牧場地は不忍通りに面する林野会館の辺りにあったと見当をつけ、そこに何か痕跡がないか“探検”したのだ。しかし足跡は何も残されていなかった。当時撮影された写真をからその頃を推測するしかない。その写真を見ると、狭い敷地に牧牛が密に存在していることが分かる。












 興真舎牛乳店は昭和3年に牧場と工場は千葉県八千代に移転し、本社のみ東大農学部正門前に置かれているとのことで、散歩で本郷へ見に行くと、本社はマンションの中に入ってしまい、右写真の看板を見るのみだった。
 波乱万丈の社史があったらしい。太平洋戦争での戦災により都内の工場を焼失し、また農地解放で習志野牧場の大半を失ってしまった。昭和25年習志野牧場の一角に牛乳処理工場(八千代工場)を建設して事業を再開し復興を成し遂げ今日に至っている。そのお陰で私もコーシン牛乳を飲んだのだった。