稲付川は石神井川の分水として、現在の板橋区双葉町から赤羽駅付近を経由して隅田川へと注いでいた農業用水。1967年に開始された工事により現在ではほぼ全域が暗渠化され排水路に役割を変えている。7月13日(月)、指圧屋・水野さんに案内されて、双葉町から姥ヶ橋までは車で、そこから赤羽までは徒歩で稲付川暗渠を巡ってきた。
この日、指圧後に散歩する予定だったが、天気予報によれば午後3時過ぎは雨。そこで散歩を先にした。分水点と見なせる久保田橋から車で巡ったが、日曜寺・稲荷台・姥ヶ橋付近には車を止めての散策で、これがその後日私一人で歩く際の大きな参考になった。
その後、7月16日(木)の早朝と、7月17(金)の午後に、車で案内された所を歩いてきた。今回はそちらを先に綴り、次回に姥ヶ橋から下流の話を綴りたい。
7月16日、朝早く、東上線は中板橋駅で下車した。ウイキペディアには、稲付川と石神井川の分水点は中板橋駅そばの向屋敷橋付近とあったからだ。水野さんに案内された久保田橋の一本上流に架けられた橋で、どちらの橋付近にもそこが分流点であった痕跡は残ってはいないが、向屋敷橋付近には右写真のマンホールがあった。
向屋敷橋からスタートすると、直ぐに日曜寺に至る。立派な建物のお寺さんで真言宗霊雲寺派の寺院とのことだが、私の関心は門前にある右写真の石橋の名残りにいってしまう。暗渠歩きの面白さの一つは消えてしまった川の痕跡に出会うことだ。
そこから先の流路は智清寺の塀に阻まれて進めない。智清寺にお参り方々境内を見学しようとするが、朝5時台は門が閉ざされ境内には入れない。止む無くこの日の散策はここまでにして帰路についた。
翌17日、再び智清寺へ。掲示板には「山門前にある正徳四年(1714)の石橋は、江戸から大正時代に使用された中用水(稲付川の別名)に架けられたもの。(中略)明治五年板橋町と下流の上十条村以下七ヵ村との間で配水を巡って争い、板橋の農民が当寺に立てこもった」と書かれていた。石橋は立派な山門のすぐ傍にあった。石碑には「正徳四年」の文字が読める。昭和60年度には板橋区登録文化財(史跡)に認定されたそうな。

そこから国道17号線を越え旧中山道と交差し、更に進むと稲荷台。流路は上り坂になっている。これは不思議だ。多分この台地を越すには水路用の切通を切削したに違いない。そこから姥ヶ橋環七陸橋が見えた。台地の下を流路だったと思しき痕跡が見えた。姥ヶ橋とは稲付川に架けられた橋だったことを初めて知った。

暗渠沿いにはそれらしき痕跡が幾つもあった。下の写真はそれら痕跡。
