今朝もラジオ体操をしてきた駒込富士神社。その地は、安政時代の古地図には「富士浅間社 真光寺持」と記され、その脇に「駒込富士」の、少し小さ目の文字も記されている。神仏習合だった時代の名残(?)、いや象徴で、社と寺の文字がと同居している。
又、文京区教育委員会発行の『駒込神明貝塚 第3地点』に登場する富士神社の図には「真光寺兼帯駒込冨士境内作事惣図」との名前が付けられ、「天保13年10月」と付されている。「真光寺兼帯」からは、真光寺が神社側の諸々の職務を兼ねているとも読める。現在の富士神社に真光寺を偲ばせる痕跡は見当たらない。そこで真光寺探しの小旅行に出掛けた。
まずはネットで調べると
『天台宗寺院の真光寺は、富元山瑞泉院と号します。・・・江戸時代には本郷にあり、藤堂家の菩提寺となっていた他、「本郷薬師」として崇敬を集めたといいます。第二次世界大戦より被災、当地へ移転したといいます。』と。
古地図で調べると春日通りと中山道が交差する地点にかって「真光寺」はあった。なんと、そうとは知らず何度もその前を通り過ぎた本郷薬師に真光寺があったとは。それも藤堂高虎が再建したとは、知りませんでした。1945年(昭和20)年に焼失し、その後世田谷区給田へ移ったことも知った。
ついで、4月10日(火)指圧屋シュークロースへ出掛ける前に本郷薬師に立ち寄った。本郷薬師と書かれた額の掛かる朱門を潜ると薬師を祀る小さなお堂が建てられ、説明板には『この地は真光寺の境内であった。伝えによれば、寛文10(1670)年にここに薬師堂が建立された。「本郷夜市は著名なり。連夜商人露天を張る。毎月八日、十二、二十二日、は縁日なり。縁日の夜は雑踏を極むるなり」(新撰江戸名所図会より)・・・』とあった。(写真:上の図と同じ位置の現代の地図)
本郷薬師の中に真光寺があったのではなく、真光寺の一角に薬師堂が建てられ、その薬師様のお参りに人々が集まり、縁日ともなれば多くの人で賑わったと知った。そういえば、1年半前に観た「婦系図」の第2幕が夜店を訪れる庶民で賑わう場面だった!(写真:薬師堂)
さてその薬師堂を進み右折すると、震災を免れ、この地に残された「十一面観世音菩薩」が鎮座しておられる。その脇には墓地があり、水汲む盥には「真光寺」の文字が見える。真光寺はその本体は世田谷に移転してしまったが、墓地の一部は現存し、ご近所の方に管理を任せていると推測した。
明治から大正・昭和にかけて真光寺よりも本郷薬師の方が著名だっただろう。『婦系図』二十二 ”道学先生”は次の文で始まっている。
「月の十二日は本郷の薬師様の縁日で、電車が通るようになっても相かわらず賑にぎやかな。・・・、燻くすぼったカンテラの燈あかりで見ている男は、これは、早瀬主税である。」
電車とは後の市電のことで1904(明治36)年に開通した2系統が本郷三丁目で交差した。賑わうはずである。『婦系図』の連載が始まったのはその4年後のことだった。