東北の被災地を、部落民などにとって住みやすいまちにしていく。



たとえば、従来から継続している劣悪な地域の再開発事業。


ここも、部落地域などであってそこを住みやすく再開発している。



しかしながら、この再開発事業は成功したためしがなく、いずれまた元のとおり劣悪な地域になってしまう。


そして、この再開発の手法は、一般的に快適で住みやすい住環境の整備である。


つまり、こういう風に整備してしまうと、いずれまた劣悪な環境になってしまうということである。




こうである状況にたいし、たとえば住環境だけを整えるのではなく、そこに住む住民の生活も変えていくようにしなくては、同じように生活していてはまたもとのとおりの劣悪な環境になってしまうと考えた。



しかしながら、彼らにとって、普通の生活というものを送っていくということが無理であるということがわかった。


つまり、彼らの生活には、普通の人々とは異なる何かが欠落しており、それはどれだけ生活を改善しようとしても変われないことである。



そして、この何かが欠落した生活に適した住環境を整えていくことが、彼らにとって快適な住環境を整備していくということなんである。




では、いったい彼らの生活には何か欠落しているのか。




人としての当たり前のモラルとか、常識とか、そういったことか。


社会に対する適応力がないとか、自己管理能力に欠けるとかそういったことか。



そういったことが、普通の人に比べて圧倒的に欠けているので、そこが欠ける生活になる、ということか。



たとえば、そうであるとして、ではその生活とはいったいどんな生活なのか。




生活は不規則で、時間や季節などの感覚に乏しく、ゴミ出しや清掃などのルールも守れない。



こういう生活であるとする。




こういう生活を送っている人々が集まって住んでいて、快適で周囲にも害がないような住環境を整備するというのは、いったいどういう風にするのか。



自分でゴミも出せずに掃除もできないから、だんだんとゴミが溜まって汚くなる。


生活も不規則で、時間もなにもルーズであるから、地域全体が不健全な雰囲気になる。




つまり、極力自己管理が少なくてすみ、それぞれの生活が見えないような住まいを用意すればいい。


ここに、強力な管理人を駐在させ、彼らの生活を管理していくという方法は、それはもっとも間違っていて、それはともすれば刑務所や収容施設のようになる。




彼ら自身が管理できる範囲の生活を送れる住環境を用意することである。




だからといって、後進国の原住民のような住まいにすればいいのかというと、それも間違っている。


こういったことが欠けていたとしても、彼らが一般の人々と同じようにできていることも多々あるんである。




それは、自己管理ができないとか、社会のルールが守れないといったことが、人として低レベルなことであって、そういうことができない人々に対して親切に住みやすい環境をわざわざ用意していくということに非常に抵抗を感じることかもしれない。



それができて初めて社会の中で生きていけて、それを前提としてがんばって生きている人々にとってしてみれば、それができない人々に対してなぜそこまで親切なことを、たとえば税金などを投入して、しなくてはいけないのか。と思うことだろう。



しかしながら、自分もいつ、そんな風になってしまうかわからない。



たとえば、今回のように、突然の災害にあって、人として何かを失ってしまう自分になってしまう可能性など、みんなにある。




それは、誰しもがそうなってしまう可能性があるという前提で、そういう人たちにとって住みやすいまちづくりに取り組んでいくという試みである。





そして、そういったまちは、新しく開拓された土地にはつくりづらいということもわかっている。



新興住宅地をそういう風に作ったとしても、そこには根付くことはできないんである。


つまり、一度荒廃した土地の跡地に、そういうまちをつくるべきである。