アメリカに開国を迫られ国を開き、明治維新によって近代国家となった日本。
このときに国家の中枢にいたものは、農民などの貧しい出の人々だった。
彼らの生い立ちや貧しい育ちゆえに、日本は他国と信頼関係を築いていくという外交ができず、その結果、第二次世界大戦において原爆投下の末に敗戦という悲劇を招いた。
その後、アメリカの指導のもと、他国との信頼関係を築いていくことが外交政策の最優先課題となったが、政治の中心に常に貧しい出の人々がいるという状況は変わらなかった。
つまり、敗戦後も日本の国家の中枢には、明治維新からの流れを汲む成り上がりの政治家が居座り続けている。
それは、敗戦という結末による彼らの進撃には、多くの不完全燃焼が残り、いまだなお日本は身分制度により虐げられてきた人々の負の感情を昇華できずにいるということである。
そして、戦後、そういうものが今度は国内政策に向いた。
つまり、主には国土の開発である。
日本は戦後、かなり国土の整備に失敗している。
それは、そういった成り上がり政治家による国土の乱開発が続いていったからである。
東日本大震災のあと、被災地の復興がすすんでいないのは、このことに多くの原因がある。
つまり、私利私欲に基づいて国土を開発してきてしまったという歴史がある戦後の日本において、そういったものを抜きにして、真に住民のために地域を整備していくということができずにいるんである。
では、阪神淡路大震災の復興はいったいどうであったのか。
つまり、そのときの復興は私利私欲に基づいた地域整備がおこなわれてしまっているんである。
地元の有力者に有利な整備。誰かの権力でもって強引に進めた復興。
日本の国土の整備とは、戦後の復興のときからずっとこうである。
真に、住民にとって住みやすく快適な地域の整備。
日本はこれまでこのことに取り組んできたことがない。
それは、常に、成り上がりの政治家との闘争の明け暮れのすえ、誰かの権力でもって地域開発をするしかなかったためである。
東北の復興もそうすればいいのではないのか。
復興がすすまないということのほうが問題である。
しかしながら、そういったことに気が付き始めた多くの諸外国や国民の注目の中、私利私欲に基づく地域復興を強引にすすめていくということなど、誰もできないんである。
つまり、ここにも日本が国際社会において背負っている使命があるということである。
復興がすすまず地域の整備が遅れれば遅れるほど、そこに住んでいる人々の生活は非人間的になっていく。
かといって、そのために誰かの権力でもって復興作業を推し進めていくこともできない。
最近のまちづくりは、住民主体の住民参加型というのが主流になっているけれど、被災して自分たちの生活もままならない人々が、まちの復興にまで力が及ぶわけはないんである。
自分たちのまちは自分たちで作っていく、というのが確かに理想であるけれど、現実はだれか一日でも早くまちを元通りにしてくれ、とみんな思っているだろう。
しかしながら、その誰かという人が、誰もいない、誰かであってはいけないんである。
住民がまちのプランを作り、住民が自分たちの住むまちを自分たちで作っていく。
これが、求められているんである。
けれど、復興が遅れていく中で、少しでも気力のある人々は他の地域に移り、新しい生活を始めている。
そのまま地域に残っている人は、そうする以外になすすべのない人々ばかりであり、そういったところに当然新しく移り住んでくる人もおらず、現実には被災地は日に日に荒廃していっている。
つまり、現実には、東北の被災地は日に日に人の住む場所ではなくなっていっているんである。
巨大な被災地部落がそこに形成されようとしている。
そして、将来的には、そこに諸外国からの難民や、部落民と化してしまった人々が集められていく可能性が高くなっている。
実は、阪神淡路大震災のときにも、そういう計画がなくはなかった。
しかし、地元の権力者によってそうではない復興が強引にすすめられ、そういった計画は消え失せてしまった。
つまり、諸外国や国民は、東北の被災地がそういう地域になっていくことを期待しているということなのか。
そういうことなのかもしれない・・・
そして、そういうことにこそ、成り上がりの政治家たちが、携わっていかなくてはいけないんである。