光が当たるところには、必ず影ができる。



光が当たるところは、輝かしく前向きで肯定的な世界である。


が、そこにできる影は暗く淀み、否定的でゆがんだものである。




たとえば、家庭において光と影ができるとはどういう場合か。



父親が昇進して、課長になった。


出世したうえに昇給し、家族もたいへんにうれしく思う。


父親はさらに仕事に励み、家族もそれを応援していこうと思う。



この出来事はこの家庭に大変光があたったといえる。



しかしながら、そこにできる影が当然ある。


たとえば、仕事が大変になる父親を支えるために、母親の負担が大きくなる。


父親に手がかかるために、子供に手が回らなくなる。


さらに、父親が出世して、周囲から妬みや嫉みなどを受け、母親や子供は辛い思いをする。


さらに、出世していく父親に恥じないように、母親や子供も自分も向上していくようにがんばらなくてはいけない。




など、こういったことが、父親の出世という光によってできる家庭の影である。





たとえば家庭における光と影というのはこういったことであるけれど、これと同じことが社会でもおこるということである。



高度経済成長という国家の発展、国際社会への進出という国家の成長。


こういった国家の光にも、同じように影ができる。




この影を、闇社会が引き受けるとはどういうことか。



そして、この影を闇社会が引き受けないとどういう状況になるのか。





たとえば、父親の出世にともなう家庭の影を、母と子がひたすら引き受けていくとどうなるか。


母親は過労で体調を崩し、子供は母親に面倒をみてもらえず、さらに周囲からの妬みやプレッシャーによって精神がゆがんでいく。




しかしながら、こういった普通の家庭の影を、闇社会が引き受けるということはいったいどういうことであるのか。



普通の家庭に暮らす人々が、闇社会とつながるということはあることなのか。


闇社会とはいったいなにか。





それこそ、ずっと昔の日本では、そこに暮らす人々はみんな地域に根付いた生活をしていて、その地域の中にいろんな人がいて、その中にヤクザの親分のような人もいて、困ったことや手に負えないことなどはその親分のところに持っていったりしていた。




そういう行為が、家庭の影を闇社会に引き受けてもらう、ということだったんだろう。




現代ではそういう行為はちょっと考えにくいけれど、たとえばさきの父親が出世した家族の場合、負担の大きくなった母親や子供が、近所の飲み屋などにいっていろいろと相談に乗ってもらうとか、そういう行為が考えられ、その近所の飲み屋がつまりは闇社会とのつながりになる、ということである。



つまり、昨今では飲食店がそういった家庭と闇社会とがつながる場所になっているということである。


が、すべての飲食店がそうというわけでもなく、飲食店を経営している人すべてが闇社会とつながりがあるわけでもない。




つまり、個人的にそういったこととつながれた場合、その家庭は闇社会からなんらかの手を差し伸べられているけれど、まったくそういうつながりがなかった場合、さきほど書いたように、母親は病み、子供もゆがんでいってしまうということである。



つまり、政治的策略として、家庭がそういうものとつながれるようなしくみを日本は作っていない。



それが、日本社会全体としてそういった傾向があり、社会全体として、光にともなう影を闇社会が引き受けられるようなしくみを作ってはいない、ということである。