人生の苦しみを放棄し、そこから逃げ、自ら部落民になろうとする人々。

人間の領域を逸脱した部落の世界に好んで加わろうとする人々は、やはりどこか人として欠落した部分があり、どこか心が病んでいるといえる。

部落という場所が、たとえば一時的にそういった人々の逃げ道になり、そこで何かから立ち直り、いずれまた自分の人生に軌道修正できるような場所であるならば、そうであったとしても特に問題はないと思われる。

しかしながら、部落という場所はそういう風には決してならない場所である。

人としてどこか欠落したものはそれがますます欠落していき、どこか心が病んでいるものはますます病んでいく。

残念ながらそうなってしまう所である。

であって、苦しみを放棄し、そこから逃げたい人の逃げ道になるような場所ではないんである。

たとえば、人生に挫折し、一時日の当たらないところに出入りしていた人とか、現実に嫌気がさし、一時ネットの世界に入り込んでいたとか、そういうことはよくある。

そういう場合は、ある時期を乗り越えれば、また元通りに自分の日の当たる現実の人生に戻ることができる。

しかし、人生に挫折し部落に逃げ込んで、また元通りになるということは、まずありえない。

つまり、挫折したり現実から逃避したい人々が、なんらかを乗り越えたり心を整理したりできるような地盤が、部落にはないんである。

それは、部落という集団が人間社会から阻害された人々の集団であるということをふまえれば、そこになにかポジティブで建設的なものが存在しているということはないんである。

たとえば、ネットの世界だってそうじゃないかといわれれば、確かにネットという世界は現実とは違うネット特有の精神世界が広がっている。

しかし、それはネガティブで破壊的なものかというと、決してそうではない。

現実の世界では実現できないような発想や思考に基づく精神世界が構築されている場所である。

であって、たとえば現実の人生に挫折した人が、そういった世界に触れることにより、希望や気力を取り戻すこともできる。

日の当たらないつまり闇の世界はどうなのか。

よく青少年が非行に走り、大人になって立ち直った、というときの非行に走る場所である。

そこは、性とか暴力とかドラッグとか、そういったものが蔓延していて、決して人間にとって良いことが横たわっているわけではない。

しかしながら、性とか暴力とかドラッグというものは、人間の抱える心の闇を映し出しているものであって、そこに逃げ込むということは、その闇を吐き出すということにもなる。

つまり、自分が苦しんでいるなにかをそこに吐き出し、それを昇華することのできる場所なんである。

それが、闇の世界である。

であって、苦しみを乗り越えて、また日の当たる世界に戻っていくこともできるんである。

しかしながら、部落という場所は、そういった作用のまったく働かない場所である。

そこにいれば、ただただ非人間的になっていき、人としてまともな思考や行動がどんどんとれなくなっていく。

それは部落民に対して大変な差別になるのではないかと思われるが、部落とはそういう場所であり、そういう人が事実暮らしているところなんである。

それは、エタ・ヒニンという賎民の子孫であったり、いろんな理由からそうならざるを得なくなった人々であり、人間の社会で人間として生きていくことがもはや不可能である集団である。

つまり、人としてのモラルとか、マナーとか、努力とか、苦労とか、そういったことを求められてもそれができない人々である。

部落という場所を人生の逃げ道にするということは、かなり危険であり、それはしてはいけないことである。

そこを逃げ道にしてしまうと、一生元の自分には戻れない、一生人としての人生を再び歩むことはできないんである。

つまり、好んで部落民になってはいけない、ということである。