夫婦のあいだに生まれた問題のある子供。


これまで家族全員で面倒をみていたこの子供を、夫婦の宿命として引き受ける。




そうすることによって、夫婦以外の家族はこの子供から解放され、自分の幸せを手にし、自分の人生を歩んでいくことができる。


しかし、この子供を引き受けた夫婦は、この子の不幸に付き合いながら、この子が家族の中や世間で受ける辛い思いを共に引き受けていかなくてはいけない。



それは、夫婦そのものの人生というものはこれまでと同じように思い描くことはできない。


この子供の不幸な将来が、同じく自分たち夫婦の将来である。




しかしながら、この夫婦には他にも子供がいる。


他の子供は、この子供から解放されることによって、自分の人生を手にし、たとえば結婚して家庭を持ち子供をもうけるとか、仕事に成功して社会で活躍していくとか、そういった幸せな将来が待っているとする。



そういう子供の親でもあるとして、この夫婦がふたりして不幸な子供の人生に付き合っていくということは、他の幸せな子供からしてみれば、自分の親としてのいろんな役割を果たしてもらえないことになる。



たとえば、幸せな結婚をして子供が授かれば、孫のいろんな行事などに祖父母として参加してもらいたいと思うし、社会で成功すれば、親として何かの折に顔を出してもらわないといけない。


そういう具合に、幸せな子供にふさわしい親であらなくてはいけないんである。



つまり、夫婦ふたりが不幸になるということは、幸せな子供にとってはいたって困ることである。



であって、どちらかは幸せな子供に寄り添える親でいなくてはいけない。






幸せな子供の幸せな生活に寄り添って、その子供にふさわしい親として子供にいろいろな支援をする。




そうなったときに、父親と母親とどちらが不幸な子供に付き合い、どちらが幸せな子供に寄り添うのか。



それは、その夫婦によって違うかもしれないけれど、おおむね不幸な子供に付き合うのは、その子供を産んだ母親であろうと思われる。




母親は不幸な子供と共に生き、その子が受ける辛い仕打ちを一緒に引き受けてやる。


その一方で、父親は幸せな子供に寄り添い、その子供にふさわしい親としていろんな役割を果たす。





親というものは、死ぬまで子供の親である。


子供が自立したからといって、子供の親であるという役割から解放されることなどない。



いくつになっても子供は子供であって、死ぬまで親はこの子供の親である。






共に歩いてきた夫婦の道が、子供によってこんな風に分かれてしまう。




なぜ、自分ひとりがこの子供を背負わなくてはいけないのか。



それは、不幸な子供であっても、幸せな子供であっても同じことである。


幸せな子供の親であるということも、大変にプレッシャーのかかる辛い役割である。




それは、その幸せな子供にふさわしい親であらなくてはならず、この子の幸せを傷つけるような言動をしてはならず、この子がどんどん手にしていく幸せな世界に自分もなじんでいかなくてはいけない。



親として大変に努力のいることである。



そうであるよりも、不幸な子供の不幸に付き合っているほうがよほどに楽であるかもしれない。




それは、どちらかふさわしい方が役割を果たせばいいわけで、父親が不幸な子供に付き合うのが向いているようならばそうであればいいし、母親のほうが幸せな子供の親であることがふさわしいのであればそれもそうであればいい。




しかしながら、子供を産んだことのある母親であるならば、自分はおそらく不幸なほうの子供に寄り添って生きたいと普通は思うだろう。




なぜなら、母親には、こんな子供に産んでしまって申し訳ないという後ろめたさが、その根底に少なからずあるからである。




夫婦が共に幸せな子供と不幸な子供の両方に寄り添って生きていくことは不可能である。



それは、今までのようにきょうだいの人生がごちゃまぜになることになるからである。




幸せな子供の人生に寄り添うということも、そこから解放されれば、大変に楽になることかもしれない。


その子にふさわしい親であり続けなくてはいけないというプレッシャーが、どれほど自分にとって負担であったか思い知るだろう。