自分の産んだ娘を通して、おいしい人間に寄生し、贅沢を貪るおばあちゃん。
かつて、満州で戦時中に身を立てた夫だったが、途中からシベリアへ搬送され、一家は没落。帰国後は戦犯の家族となった。
夫がシベリアへ搬送されて後、このおばあちゃんは子どもを守るために中国の従軍慰安婦になった。
つまり、満州で成功したかに見えたけれど、途中から捕虜のように婦女暴行を繰り返し受け続けたんである。
であって、終戦後帰国。
こういった体験の後に産まれたのが、母親だった。
つまり、おばあちゃんのそういう体験のすべてを背負ってゴミとして産まれた。
そんな子どもを、愛せるわけがないんである。
女は自分の不幸を子どもに背負わせてゴミとして放出する。
その子どもは母親の不幸を背負ったゴミであって、また自分の不幸を自分の子どもに背負わせてゴミとして放出する。
この連鎖を断ち切ることはできない。
おばあちゃんは、母親をゴミとして産み出したことで、楽になった。
その母親もまた、娘をゴミとして産み出して、何かから解放されている。
そして、その娘もまた、自分の娘をゴミとして産み出した。
そうやって、不幸を子どもに背負わせて自分は楽になっていく。
これが不幸な女の連鎖である。
これを断ち切ることはできないし、こうして連鎖していくことで、不幸な女は自分が楽になっているんである。
であって、不幸な女を幸せにしてやろうなどと思うことも無理である。
それこそ、立派な男のおこなう偽善である。
立派という形容詞は、偽善と同じくらい嘘くさい。
不幸な母親や妹を幸せにしてやりたいと思った立派な息子は、そういう思いこそが偽善である。
そんなことは誰もできない。そんなことはしないほうがいい。
この立派な偽善を引っ剥がす。
嘘くさい。何もかもが…
奥さんは、もう、この旦那の立派な偽善に関して、あきらめてしまっている。
これは、この男はずっとこうであると。
そうであることで、自分がなんら責められることはないからね。自分は一生懸命、立派であり続けているんであるし、なんとか幸せにしてやりたいと努力しているつもりなんであるから。
奥さんのほうがよほどに人間として立派であるんであるけれど、そんな奥さんに向かって、偽善に生きている立派なつもりの旦那はえらく上から物を言う。
それは、負け犬とともにウジ虫にまみれて生きてきた男が、まともな人間社会を知らないせいである。
そんな男に向かって、奥さんが何かを諭すはずもない。
まともな人間社会と地域社会に受け入れてもらえるように、ウジ虫との間に構築されているおかしな関係を解消することである。
それをしないかぎり、彼がまともに人間社会で生きていくことはできないでしょう。
奥さんは、それでいいのか?
イイ男だから、それでいいんである。
自分がウジ虫から解放すれさえすれば、旦那がウジ虫まみれで生きていようが、ただ、そこに居てイイ男だから、それでいいんである。
まあ、そういう女性である。
つまり、自分がウジ虫と関わりさえしなければいい。つまり、奥さんがウジ虫と関わらなくなったら、旦那は一生そこから這い上がれない。
奥さんがまだ関わってくれているうちに、なんとか這い出ることである。
よくまあ、あんなにおかしな関係を他人と築けるね。
というぐらい、おかしな関係。
人って面白い…
こっちはもう、生物的に拒否反応が激しくて、動物として彼らを受け付けない。
が、よくよくみれば、ほんとうに可哀相な人たちである。
だから、そう思うんなら、偽善でなく、真に彼らのためになることをやるべきなんであるけれど、中途半端な偽善で関わって、キモくておかしな関係を結んでいる。
子どもがみんなゴミなんである。
ゴミに対して、DNAとしてのつながりに喜びを感じたりしない。
そういう女の産んだ子どもは、みんなゴミなのか?
母親がそういう女である人は、みんなゴミとして産まれたのか?
とすると、旦那も母親の産んだゴミということになる。
偉大なるゴミ。
そういう存在もあるのかもしれない。
そして、そうであるなら、旦那も妹と同じである。
妹と同じく、あの母親の産んだゴミである。
なんにも立派な男じゃない。
自分は妹とは違うと、ずっと思い込んできた。
自分は特別に優れた男で、妹は母親の産んだゴミである。
そんな勘違いをし続けてきた。
なんのことはない。自分も妹と同じく、母親の産んだゴミである。
まみれているウジ虫たちと、同じ、ウジ虫の母親によって産み出されたゴミである。
誰が、立派な男だと思わせたんだ?ゴミに向かって。
アホな父親か?
てめえとあの女の間に生まれた子どもが、ゴミ以外であるわけねーだろ。
立派な男が、てめえの子どもとして産まれてくるか?
アホにつける薬はない。
かえるの子はかえる。
彼の魅力は、たくましい生命力である。