人はたったひとりでは生きられない。
それは、長く生きれば生きるほど、そのことを身にしみていくはずである。
あのとき、この人がそばにいてくれたからこそ、乗り越えられた。
あの人が手を差し伸べてくれたからこそ、乗り切れた。
人生は、そんなことの積み重ねであって、そうやって、周りにいてくれる人たちに感謝し大切にしていく。
けれど、いくつになってもひとりで生きている人。
いずれ人でなくなって当たり前である。
負け犬である男も、こんな風にひとりで生きている寂しい男なんである。
自分が人でなくなることが怖いと思えば、誰かに助けを求める。誰かに救いを求める。
が、なりふりかまわずそうすることより、人でなくなるほうがましだと思う。
なりふりかまわず人に助けを求める。
こういうことが、この人たちにはできない。
それは、プライドとは言えない。自分勝手な思い上がりである。
自分はひとりで生きていける。誰かの手を借りたくない。そういうただの思い上がりである。
であるので、ウジ虫になってさえも、その思い上がりが消えず、いっちょまえに偉そうな口を聞いたり、気に入らないことに対して攻撃してきたりするんである。
その本質は、人に頭を下げて何かをお願いすることができない。という驕り高ぶったくだらないいきものなんである。
人に頭を下げるよりも、人でなくなって誰かに寄生することのほうが、よほどに惨めである。
が、人に頭を下げたくないんである。
だから、結局、たったひとりで生きていき、いずれ人ではなくなっていく。
こういう人が、たとえば母親であって、母ひとり子ひとりの親子であって、そういう息子と結婚して、いずれこの母親を面倒みるとわかっていて、が、母親がこういう人であるために嫁は面倒をみようとしない。
この嫁は何を考えているのか?
この嫁自身も、ひとりで生きているウジ虫なんである。
この嫁もまた、結婚して新しい家族が出来たにもかかわらず、たったひとりで生きている人なんである。
つまり、ウジ虫同士が受け入れるしかない。
そこ以外に、この人たちの居場所はどこにもない。
そうであって、ウジ虫同士という縁が、そこにあるんである。
人に頭を下げることなく、人として生きていけることなんかありえない。
そうせずして生きているということは、よほどに惨めであるために、周りがしかたなく合わせてやっているだけである。
惨めなウジ虫。なんでそんな風に育ったんだろうな。
頭がすっからかんで軽過ぎて、下に下がらないんじゃないの?
実るほどこうべを垂れる稲穂かな。