部落は血縁の継続ではない。
という解釈にもとづき、部落出身者という差別の枠を、社会からとっぱらおうということになった。
つまり、親が部落のものであっても、その子どもは部落のものであるという烙印をおされることなく、普通の子どもと同じように普通の社会にまじっていきていくことができるようにしよう。ということになった。
それは、黒人などの血縁の継続による民族の違いなどからくる差別ではないからである。
が、どうもこちらのほうが都合が悪くなる人たちがいるようである。
つまり、闇社会のように部落社会というものの中で、特殊なことをやって、特別な利を得ていると思っていた人たちがいて、そういうことが失われる、つまり、部落社会という特殊なものが失われることがまずいらしい。
つまり、部落社会は闇社会と同じようなことをやっていたと思っているらしい。
が、残念ながら、みんなただの普通の男であって、さらには身体的、社会的に、それ以下である男が多い。
つまり、闇社会と同じことなどやれていたはずがない。
今日からすぐに部落という社会を失くす、というのは当然無理である。
が、そのことに悩んだり苦しんでいたりする若者や子どもがいるとして、彼らに未来を与えようとしているんである。
で、特殊な仕事をやって特別な利を得ていたと思っている部落の親などからしてみると、そういうことがたちまち失せてしまい、普通の社会にまじって普通の人と同じように働け、というのが難しいのかもしれない。
つまり、まともな労働になど従事できないんである。
たとえば、どこかに嫌がらせをして、食べるものを得ていた。とか、そういう人たちに、まともに働けというのも、まあ無理だろう。
が、そういう社会にとって害のある存在を、もう失くしていきたいんである。
で、そういった政府の意向に対して、部落の人たちは何か言い分があるらしい。
闇社会は存在していていいのに、なぜ部落社会は存在してはいけないのか?
それは簡単です。闇社会は別に害はないけど、部落社会は害がある。
そもそも、闇社会の中で、害ある存在であったりした人は、もともと部落の人だったり、普通の人で身を持ち崩した人であったり、そういう人たちである。
そういう人たちが、害ある存在になったんであって、闇の人は普通の社会に害を与えることなんかしない。
であるので、部落の人とか、普通の人で身を持ち崩した人が、迷惑な害ある人になるんである。
つまり、普通の社会から排除される、普通の社会から落ちこぼれた、ということが彼らの苦しみになるわけであって、その苦しみが周囲に害をまき散らす。
であって、生粋の闇の男は、普通の社会にまじりたいとか、そこから排除されることが苦しみであるなんてことは、これっぽっちも思わない。
光が当たりたいと思うようなチンピラは、そもそもただの普通の男である。
であるから、こういう男も普通の世界に戻れるようにしてやろうとしているんである。
普通の男が普通に生きていく以外に、できることなどない。
なんか、ヤクザに憧れる男っているのか?
あの、どすのきいた言いまわしとかがカッコイイとか?
確かに、そういうこと真似してるっぽい部落の人いるよね。
すごい滑稽。
そして、そういう真似しつつ自分らのやっていることは、ただの普通のことである。
そもそも、大人世代とつながったこの時期に、スカイツリーがオープンするなんていうのも、かなりな皮肉なんであるが、あのツリーは建築物の価値としては最悪である。
そういう価値として、社会に認められることは一切ないし、むしろそういう視点からみれば大いに批判を浴びるものである。
が、以前も書いたけれど、あのツリーはシンボルタワーである。
長年、日本社会の中で虐げられてきた部落の人々が、社会の表に立って、自分たちのいろいろをあのタワーに託したんである。
それが、虐げられずに、実現した。ということが大切である。
当然、建築的な価値が低いのは最初からわかっている。
そういう能力など持ち合わせていないんであるから。
であって、社会の価値観が正規に戻ってきたところで、あのタワーがオープンして、自分らがいろいろを託したあれが、いったい社会の中でどういう存在のものになるか、ということを認識するべきである。
まあ、優れた人たちは、あのタワーのいろいろは、日本文化の恥であると思っているようである。
が、あのタワーは、文化的価値があるものではなく、政治的意味のあるものである。
自分たちのいろいろを見失いそうになったら、あのタワーを見ればいいんである。
あのタワーは、決して東京タワーのように評価されない。
自分たちの存在は、あのスカイツリーそのものである。
それを、わざわざ自分らが恥をさらして、あんな東京のど真ん中におっ立てたんである。
まあ、政治家なんか信用するもんじゃないね。
そういうことの何もかもがわからないんであるから、ただの普通の人である。