人間社会からはみ出て、人類の中で最下位にいる愚劣な人たち。



この人たちは、つまり、地球上にいるいきもののなかで、いちばん愚かな存在ということになるんであるが、そうあることはほんとうに自分のせいではないのか?




優れた人は、そんなに愚かである人のことも、いろいろに理解しようとするんであるが、どう考えたって、本人のせいである。



こうである自分を、何かのせいにしない。




それはすべて、自分がそうした。





その結果である。






乳幼児の頃に親から虐待を受けて脳に障害が出る。


これも本人のせいか?



これも本人のせいである。



つまり、子どもというものは、母親のお腹の中に魂を宿したときから、その子どもはどういう子どもであるのか、だいたい性質がわかる。



この子は強くてたくましい子だな、とか、可愛くて優しい子だな、とか、お腹の中に出来たときから、だいたいがわかるんである。



であって、その子がお腹にできたことによって、母親が生きる支えを得る。ということもあるし、この子がお腹にいるだけで、嫌な気持ちになる、ということもあるだろう。



であるので、もう存在そのものが嫌がられる子どもというのは、母親のお腹の中に魂が宿ったときから、すでに忌み嫌われているんである。



だから、虐待される。無意識に虐待してしまう。




命の誕生は、いきものにとって、もっとも大事なことであるのに、なぜこんな風に忌み嫌われる存在ができてしまうのか?




生まれながらに愛される子と、生まれながらに憎まれる子。




これが、生まれながらの格差になる。




そして、命というのは、長い年月をかけて、受け継がれるものであり、人類の歴史が長くなれば長くなるほど、受け継ぐものも増えるわけで、愛を受け継いできた人は、生まれながらに愛され、憎しみを受け継いできた人は、生まれながらに憎まれる。



そんなことも、目の当たりにして思い知らされたね。




奥さんの妹の産んだ子どもは、それこそ奥さんの受け継いだ愛をさらに受け継ぎ、生まれながらに愛されている。



が、旦那の妹の産んだ子どもは、憎しみを受け継ぎ、残念ながら生まれながらに忌み嫌われている。



そして、妹と同様に、ゆさぶりによっておそらくなんらかの障害が出ていると思われるこの子どもを、いったいどうすればいいか?


それは、激しくゆさぶりながら母親があやしていたんであるが、本人は、子守唄みたいなのを歌いながら遊んでいるつもりであって、とうていそれに口出しをできない雰囲気があった。


が、その根底には、この子どもに対する憎しみがあり、無意識に虐待していたんである。



とはいっても、おばあちゃんと一緒に暮らしているわけではなくて、たまに遊びに来た時にそうするわけであって、繰り返しいつもそうしているわけではないんであるが、それは、一度そうされたことの衝撃というのは、ほぼ虐待の記憶となる。



が、このときに、たとえば、お母さん、そんなことしたら子どもは死にますよ。とか、そんなことしたらダメですよ。と口をはさんだらどうなるか?


さらに虐待がエスカレートする。




今度は、誰かが見ていないところで、激しく虐待するようになる。



つまり、そうなった事実がある。




それは、嫁と一緒に母親が子どもと遊んでいるときに、嫁がその子の汚れている手とか口元なんかをティッシュでふいてやったりした。


母親はその子が汚れていることをなんとも思っていなくて、汚いままにほうっていたんであるが、嫁のその行為が癪にさわったらしく、嫁のいないところで、その後、激しく口元や手をごしごし拭くようになったり、なんかそういう風に逆に違う虐待が出てしまったんである。



が、それに気が付いた嫁は、その後、その子どもに会って、その子がたとえどんな酷い状況であったとしても、一切関知せず、何も言わず何もしなくなった。



であって、妹の子どもは、いつ会っても、ボロボロなんである。すでに2歳にして。




が、どうすることもできない。





お兄さんのお嫁さんが大変に優しく優れた人であって、これであるから、これが普通のお嫁さんであったら、さらにこの子どもはおかしな状況になっているだろう。


だって、お姉さんは自分の子どもは流産しているんである。なのに、妹はその後またもうひとり子どもを平気で産んでいる。


普通のお嫁さんであれば、この妹の気遣いのなさを憎み、この妹の産んだ子どもがさらに憎らしいだろう。





が、そういう家族であるということが明らかに想定できるので、嫁が流産したということは、自分の家族には一切告げていない。


人間が欠けるということは、そういう待遇になるんである。



何も教えてもらえなくなる。