貧しく不幸な父親が悪に変貌し、家族を不幸にした。
それが見えなかった息子。
が、息子にしてみれば、この父親のそばにずっといた母親にも責任があると思わざるを得ない。
であるなら、息子のお前は、母親を気にかけてやっていたか?
そういう父親の面倒をみなくてはいけない母親を、一度でも労ってやったことがあるか?
そういう母親の愚痴を、一度でも聞いてやったことがあるか?
そういうこともしなかったことすべて含めて、君自身の無力さなんである。
たったひとこと、あんな父親の面倒みて、大変だね。とか、苦労するね。とかそんな言葉をかけてやったことあるか?
確かに、家業に戻って、家族のために仕事をして、養ってやっていたかもしれない。
けれど、そうやって何年も一緒に親子で仕事をしていたにもかかわらず、父親がどんな風にその仕事をとってきているかとか、知らなかったんである。
そこに、大きな不幸がずっと横たわっていたにもかかわらず、息子はそうであることにすら気が付かなかったわけはないと思うけれど、目を向けなかった。
が、これも息子だけが悪いとも思えない。
これほども近くにいて、同じ時間を過ごしているにもかかわらず、そういった情がわかないというのも、幼い頃からの家族関係の積み重ねであって、よほどに親は息子に愛情を注がなかったんだろう。
3つ子の魂100までも。というが、3歳までに子どもが身につけたものは、一生もんである。
つまり、3歳までに、親は子どもが親を愛せるような何かを与えなかった。
であるから、それは大人になろうが、どう状況が変わろうが、たちまち親を愛せるようになるわけもないんである。
それは、親は自分が子どもにそういう仕打ちをしたんだと自覚して、それは自分のせいであると、子どもを責めたりしてはいけない。
幼子には記憶に残らないだろうと、大人は酷いことをしたりする。
が、この幼子の記憶こそ、一生その人が引きずっていく記憶なんである。
幼子のときに、親から愛された記憶がない。であって、親を愛せない。
これは、もう取り返しがつかない。
それは、自分が自分の子どもにそうさせたと思って、甘んじるしかない。
つまり、親が子どもを責めるということは、すべてにおいて誤りである。
親のせいではないかもしれない。でも、親の責任である。
子どもを親が責めてはいけない。
それは、自分の非を、ただ子どもになすりつけているだけである。