暴力的な父親の暴力性。



この父親はなぜ、これほどに暴力的であるのか?



それは、自分も虐待されていたからである。



虐待を受けて育った子どもは、大人になると自分も虐待するようになる。




つまり、旦那さんのお父さんは、幼少の頃から虐待を受けていた。




それは、定かではないが、戦争から戻ってきた父親に、おそらく虐待されていたんである。


つまり、戦争から戻ってきた父親が、戦争の傷を癒すのに、子どもなどに虐待を加えていた。




それは、母親に向けられるべきだったものが、この子どもに向けられたのかもしれない。



彼の家族の話をするとき、どうやってもいつもおばあちゃんのところに行き着き、おばあちゃんに否があるという結論に至ってしまうんであるが、敗戦後、帰還した兵士であるおじいちゃんの戦争の傷を、おばあちゃんは癒してやれなかった。


であって、それは子どもへの虐待につながっていった。




そして、この家族のいろいろを引き受けた部落民は、受け止めることもできないくせに、いろいろを憶測で解釈し、この人たちを余計に混乱に陥れて行った。


そして、そうされていったこの家族は、部落民にとんでもない仕打ちをするようになり、逆に部落民の恨みを買っていった。



つまり、どっちもどっちなんであるが、おばあちゃんたちも悪いし、部落の人も悪い。




つまり、そこで、おばあちゃんたちを受け止められる社会的な救済がなかった。ということが、もっとも悪いんである。



この際、部落民のことは置いておいて、こういった人々を社会はどう救済していったか。


彼の家族はたまたま部落に行ったけれど、社会で救済された人も当然いる。




たとえば、家庭内暴力。アル中。



社会的な更生施設。というのがありますね。




そういうところに行ければいい。



児童相談所とか、ファミリーサポートセンターとか。




が、こうやって堕ちている人たちは、まともに対応されて、それに応じるはずもないので、そういった場所になかなか行くのは難しい。



で、自分らよりさらに弱そうとか、貧しそうとか、自分らが優越感を感じられるような相手から、面倒みてあげましょう。と言われるほうがすんなり応じられる。




であるので、そういう人たちからそんな風に思われる部落民を、更生施設などの職員に起用したりするんだと思うんだけど、なんかうまくいかない。



まず、それに部落民がずるずると群がってついてくる。


で、何かおいしいことがあれば部落に持ち帰ろうとする。



それが嫌がられるので、そのうちその職員は、部落民との関係を断ち切り、自分は部落民であることを否定し、普通の人みたいに振る舞う。




であるので、その部落出身者である人を職員として雇っている意味がなくなるんである。



別に彼じゃなくてもよくなる。



であるなら、もっと優秀な別の人を雇いたい。




つまり、部落の人を社会で起用する。ということには、こういう流れが派生する。



部落出身者であることを、自他ともに認め、その弱者の立場からいろいろ対応してもらいたいのに、そのうち弱者でないと言い張り出す。



まあ、これもその人の本質的な性格だね。




その人が嫌なやつだから、辛い思いをする。





たとえば、政治活動のためにいろいろ動いてくれる人たちを育てる学校がある。



それは、有名大学の政治学部とかそんなんである。



そこで、政治のいろいろを学びつつ、その陰で暗躍してくれる人材を育てたりする。


であって、そういうところの教員に部落の人を採用する。



そして、その人に部落のいろいろを教わったり、部落とつながりを持ったりする。



が、この人がある日、自分は部落民ではないと言い出した。


部落など知らないといい、部落民を毛嫌いするようになった。





そうであるなら、その人の役割は特になくなるんであるが、そこにいつまでも居座ろうとする。



これがやっかいな存在になるんである。




どうやっかいであるかというと、もともとそれほど優秀というわけではないのに、部落民であるから採用した。


であって、そうでないと否定し出すと、部落民であるいろいろをやらなくなる。


で、それ以外に特にできることもないのに、他の仕事に手を出し始める。



であって、部落民であるから、まともな仕事ができるわけなく、ただいろいろを汚物にまみれさせていく。




が、クビにするととんでもないことをやらかそうとするので、切るに切れない。





以前、姉妹が京都にいた頃、プロダクトデザインのベンチャー会社に姉妹で雇われた。


といっても、お姉さんの方は大学との掛け持ちのアルバイト的な感覚でその会社に出入りしていたんであるが、そこにお姉さんと同じ歳ぐらいの国立大学出の女性社員が入ってきた。



この女性社員が、部落の人だった。


もちろんお姉さんは何も知らなかったんであるが、妹のほうは自分も社員であるので、この女性社員と親しくなり、飲みに行ったり家に遊びに行ったりしていた。



そして、お姉さんはなんとも思っていなかったんであるが、この女性社員が異様にお姉さんにライバル意識を燃やし、張り合った。


お姉さんは、見た目も美しかったし、性格もよかったし、さらに才能もあったので、大学に勤めていたんであるが、無理矢理に社長が引き込んだ。



で、なんと、お姉さんとその部落の女性社員に同じ仕事をさせた。



お姉さんのほうは当然、仕事の片手間に遊び半分でやっていたにもかかわらず、必死でやった部落の女性社員よりもはるかに優れた仕事をした。


そして、そこで比較されたのは、明らかに育ちからくる感覚の差であった。



つまり、そのときは空間プロデュースという仕事に関わったんであるが、その空間に対するいろいろが、生活レベルが表われてしまういろいろだった。



つまり、あきらかに貧しい部落育ちの女性社員からは出てこない発想ばかりだった。



そもそも部落民が空間プロデュースなどという高い美意識の必要な仕事に関わろうとすることのほうがおかしい。



会社の人たちは、これを思い知ってもらおうとして、たぶんお姉さんと同じ仕事をさせたんだと思うんだけれど、これが余計に部落社員の闘志を燃やしてしまった。




が、別にお姉さんは性格もいいので、そんなのただ言われたからやっただけ、みたいな感じで、彼女を相手にすることもなく、その後、妹さんが延々とその部落社員に付き合わされたんである。



そして、その人は見た目もお世辞にも美しいとは言えず、顔に大きな青いアザがあった。


であって、妹はまた、お姉さんとは別次元でこういう風に部落の人との付き合いがあった。



この人には他にもなにか突然気を失ったりするような持病があるとかで、妹はそういったことは教えてくれなかったんだけど、大変に不幸そうな人だった…



つまり、そういうことはお姉ちゃんは知らなくていいし。みたいな意味ですね。





で、何が言いたいのかというと、そういうことで、部落の人が社会で仕事をするときには、少なからず越えられないハードルがある。ということである。



ここにいつまでもしがみつくと、いろいろを失ってしまう。ということですね。つまり。




で、妹さんの方は、そういう部落民の苦悩のいろいろは知っているわけである。