子どもを虐待し続けた父親。


子どもの父親に対する憎しみは、憎しみを通り越して無になっていた。


つまり、父親の存在が、子どもの中から消えた。



自分の親に対する憎しみ、自分の妻に対する憎しみ、こういったものを自分の子どもにぶつけた。


子どもはこの父親の憎しみを引き受け、とうとう、父親を超越した。つまり、父親にたいするあきらめとともに、憐れみが自分を満たした。


この父親は、なんて可哀想な男だろうか。


なんて、憐れな男だろうか。




ゴミクズみたいにふんづけられて、干からびたにぼしみたいである。


道端に落ちた干からびたにぼしを、子どもが足でふんづけて通り過ぎていく。


それで、にぼしはあとかたもなくなる。


粉々になって風に吹き飛ばされていく。




結局、にぼしは、どこにも居場所がなかったんである。


ひたすらに自分の居場所を探し続けて、干からびた。




負け続ける男には、居場所がない。


何に負けるか。自分に負ける。


自分に負け続ける男になど、誰も見向きもしない。




自分に負け続けて居場所がないことが、そのうち被害者みたいな意識になる。


負け続ける男の気持ちなんかわからないだろう、といばる。




負け続けると、こんなにも憐れになる。


負け続ける男に寄り添い得たもの。


それは、腐敗。


腐敗の様子。




腐敗した世界。それは、負け続ける男たちの世界である。