政治被害に遭った地域で、社会と断絶し、好き放題にやってきた家族。


ただ一人、まともな息子がいた。


が、小学生のとき、人間としての成長が止まってしまった。



母親の断絶愛を受け入れられる男としての度量と、男前な見た目から、この子はつまり、女を喜ばせる男娼として成長した。


普通に考えて、このような家庭で育つ子どもが、こうならないわけがない。



が、人間として、大変いい子であった。


なので、地元の政治家が、実質、自分の息子として育てたり、地域の人々もこの息子のことは気に掛けたりしていた。


そして、地元の政治家の息子として、将来、嫁いでくる女性まで決めていた。



しかし、残念ながら、人間的な成長が叶わなかった。




そして、オイディプスの悲劇。



次々と明らかになる罪の真実。




こうであったとき、彼もまた、幸せを選ぶなどということは、人間としてできなかったんであろう。





われわれは、この子どもに対して、人としてできることのすべてをし尽くした。


これ以上、この子にしてやれることは、もうない。




唯一、男娼として、愛する女性のそばに置くことはできたけれども、自分を愛していない女性のそばにいることはできないらしい。


その人が誰を愛していようとも、そばにいることが幸せであるならば、そういう選択もできなくはなかった。



が、そこは父親に似て、男として奢りのある、不幸な男である。




自分の罪の深さに、人間としての幸せは選べなかった。


そしてまた、男としての幸せも選べない。




周りからみたら、それはいかにも不幸である。


しかし、そうであることが、本人にとっては一番、自分らしいことなのかもしれない。




周りに乞食扱いされて虐げられたとしても、血のつながった家族と、肩寄せ合って生きていく。


これが、もっとも彼らしいことなのかもしれない。


この家族のつながりを、われわれは引き裂くことはできない。




ただ、人としてしてやれるすべてのことはしてやった。


あとは、彼の中に、何かが残っていれば、自分で何かを変えていくだろう。




人を救う。人を幸せにする。


そんなことは、できるわけがない。




ただ、自分がしてやれる精一杯のことを、してやる。


このことで、自分の中に後悔が残らない。




人助けとは、そういう自己満足である。



それをわかっていない人は、不幸な人に関わって、自分も不幸になっていく。




生きていくことのたくましさ。



これを、見せてもらいました。



何も食べるものがないとき、ゴミ箱に捨ててある空き缶の残りジュースをすする。そのときに、直接缶に口をつけずに手のひらの上にジュースを落としてすする。


なぜなら、そこにたばこの吸い殻とかが入っているかもしれないから。


こんなことを子どもに教える母親。



貧しいとはどういうことか。たくましく生きるとはどういうことか。



母親がくれる栗や銀杏や柿。


当然、買ってきたものではない。どこかの敷地に植えてある木に成っているものを拾ってきたんである。


もらったはいいけれど、それを口にするのがためらわれる。




結局、彼を母親から奪うことはできなかった。


それはしかたがない。なぜなら、彼を愛しているわけではないんであるから。




人は、一生にたった一人の人しか愛することはできない。



ほんとうに愛している男は、ただ一人である。




それでも、彼女のそばにいたいと思うなら、彼女のそばにいられるような人生の選択をするしかない。


愛されなくても、愛することはいくらでもできるのだから。




女を愛することの幸せ。愛している女がいるということの幸せ。



彼は、この幸せを手に入れたかどうか。それは、今はわからない。



当然、どれだけ美しくすばらしい女性であったとしても、すべての男が彼女を愛するわけではない。



ただ、愛されることはできなくても、愛することは許される。


彼女を愛することの幸せ。これは、彼女を愛している男の共通項である。


これによってつながり、友情も芽生えたりもする。


この幸せを、これからも共有できるかどうか。それは、今はわからない。




ただ、自分の犯した罪に気付かされていく日々を、彼女と共に過ごすのが辛いんだろう。


自分の犯した罪を、一つ一つ彼女も知っていくのが、辛いんだろう。



愛していない男のそれを知っていって、彼女の何かがやはり、変わっていったのかもしれない。



自分の心に正直にある。


これが、彼女がもっとも自分らしくあることである。