樺太1945年夏 氷雪の門‎
この幻の名作「氷雪の門」は公開直前にソ連の圧力によって葬られた幻の名作

本作の公開が予定されていた1974年3月29日を目前に、
急遽、公開中止となってしまう。当時の新聞資料等は、
ソ連大使館から外務、文部両省に「反ソ映画の上映は困る」との抗議により、
配給会社が自粛に至ったと報道している。
6年前の2004年、貴重なフィルムが発掘された。
本作に助監督として参加していた新城卓氏が中心となり、
“映画「氷雪の門」上映委員会”を結成。フィルムをデジタル化し、
上映活動を展開。作品に出会った多くの方の熱い支持を受け、
今夏、36年ぶりの劇場公開となり

第七藝術劇場 十三まで行き、見てまいりました、


http://www.youtube.com/watch?v=QksAYfVNqMY

是非ともお勧めの映画です、


http://www.youtube.com/watch?v=8c7JwQDr0sw


http://www.youtube.com/watch?v=QFueq5PKNwo

【大阪】

 ■大阪 第七藝術劇場 ▼9/18~10/22

 ■高槻 ロコ9プラスシネマ  ▼10/30~11/12


◆ 語り継がなければならないこの史実

現在ロシア領サハリンと呼ばれるかつての樺太。1945年8月15日の終戦の混乱の中、この地で多くの日本人が死んでいった。8月6日、米軍による世界初 の原爆が広島に、続いて8月9日には長崎にも投下された。同日、ソ連は「日ソ不可侵条約」を破り、満州、樺太に侵攻した。
本作『樺太1945年夏 氷雪の門』は、ソ連の侵攻作戦のただなかで、最後まで通信連絡をとり、若い生命をなげうった真岡郵便局電話交換手9人の乙女の悲劇を描いた真実の物語であ る。戦争は終わったはずなのに、何故、彼女たちは死を選ばねばならなかったのか。この映画はその深層に挑んだ。

◆ 空前のスケールで描かれた平和への願い

1974年当時、日本の映画界にしては珍しくスケールが大きく、製作実行予算が5億数千万を超えた超大作として話題を呼んだ。
戦闘シーンを陸上自衛隊が全面協力し、撮影場所も終戦時の樺太に似た地形を求めて、北海道全域をはじめ、御殿場、丹沢、大山、そして常盤炭鉱地にオープン セットを組み立ててロケを行った。原作は金子俊男の「樺太一九四五年夏・樺太終戦記録」。脚本は「幕末残酷物語」の国弘威雄、監督は「あゝ海軍」の村山三 男、撮影は「早池峰の賦」の西山東男、美術は木村威夫。特に少ない資料の中から樺太の街を作り上げた木村威夫の美術は圧巻である。

◆ 36年ぶりの劇場公開!!

日本映画に、なぜか樺太を扱った映画はない。『樺太1945年夏 氷雪の門』こそ、樺太の史実と事実を残した唯一の映画である。企画・製作に9年もの歳月をかけ、試写会やアンケート調査を重ね、内容を吟味した末、完成に 至り、文部省選定や日本PTA全国協など各種団体の推薦も受けていた。また、本作の期待度の高さは、前売り券の売れ行きが70万枚に達していたことからも 伺える。しかしながら、本作の公開が予定されていた1974年3月29日を目前に、急遽、公開中止となってしまう。当時の新聞資料等は、ソ連大使館から外 務、文部両省に「反ソ映画の上映は困る」との抗議により、配給会社が自粛に至ったと報道している。その後、東映洋画配給により、東映系、東映パラス系に て、劇場公開(北海道・九州)がされるものの、小規模で、実質的には日の目を見ることはなかった。
6年前の2004年、貴重なフィルムが発掘された。本作に助監督として参加していた新城卓氏が中心となり、“映画「氷雪の門」上映委員会”を結成。フィル ムをデジタル化し、上映活動を展開。作品に出会った多くの方の熱い支持を受け、今夏、36年ぶりの劇場公開となる。
プロダクションノート

◆ 氷雪の門
北海道稚内の突端に、二本の塔が失われた樺太を遥かに望んで、厳しい風土に耐えて生き抜いた樺太島を象徴するかのように建つ女人像。戦争への怒りと、平和 への願いを込めたこの塔は「氷雪の門」と呼ばれる。本作もこの塔と全く同じ願いを込めて作られた。

氷雪の門について詳しく読む(Wikipedia)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B7%E9%9B%AA%E3%81%AE%E9%96%80

氷雪の門の場所(Google Map)

http://maps.google.co.jp/maps?q=%E6%B0%B7%E9%9B%AA%E3%81%AE%E9%96%80&hl=ja&cd=2&ei=uR4GTNHeNKSyugOQz9m6CA&sig2=NRliH6Xi2yD1SQd6sGdREQ&sll=44.238446,141.512185&sspn=2.367039,0.312484&brcurrent=3,0x5f103041ef412b63:0x6a48cddf8235c24c,0&ie=UTF8&view=map&cid=7170503748887174893&ved=0CC0QpQY&hq=%E6%B0%B7%E9%9B%AA%E3%81%AE%E9%96%80&hnear=&ll=45.436045,141.668358&spn=0.20116,0.359459&z=12&iwloc=A

氷雪の門

◆ 真岡町

日本の領有下において樺太(南樺太)に存在した町。現在はロシア連邦がサハリン州ホルムスクとして実効支配している。日本領有下当時、大規模な港湾施設が 存在し、日本最北の不凍港とも呼ばれていた。1941年の真岡町の人口は19,193人。終戦後、樺太からの引揚船は真岡港から出港。北方領土を含むソ連 占領地域の住民28万人余りがここから日本(内地)へ向かった。

◆ 日ソ不可侵条約

1941年(昭和16年)に日本とソビエト連邦(ソ連)の間で締結された中立条約。相互不可侵および、一方が第三国の軍事行動の対象になった場合の他方の 中立などを定めた全4条の条約本文、及び、満州国とモンゴル人民共和国それぞれの領土の保全と相互不可侵を謳った声明書から成る。有効期間は5年であり、 その満了1年前までに両国のいずれかが廃棄を通告しない場合は、さらに次の5年間、自動的に延長されるものとされた(第3条)。

◆ 玉音放送「終戦の詔勅」

1945年8月15日正午にラジオで放送された。出だしは、「朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非情ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ滋ニ忠良ナル爾 臣民ニ告ク…」
しかし、樺太の例を見るように、一部ではすぐには終結せず、戦争状態が継続され、多くの犠牲者が出た。

◆ 電話交換手の仕事
電話局に常駐する交換手(オペレータ)が通話を媒介する。
 1.発信者が交換手を呼び出し、交換手に相手先電話番号を告げる。
 2.交換手が連絡を取り合いながら配線を繋ぎ変える。
 3.受け側の交換手が受信者を呼び出す。
 4.受信者が応答し会話が開始される。
 5.どちらかが終話の操作を行うと回線は切断される。
真岡郵便局の電話交換業務は、普段から24時間体制で運営され、
1 組12人ほどをひとつの班として、3交代勤務をとっていた。

電話交換手の仕事

◆ 緊急疎開命令

1945年8月8日、ソ連は対日宣戦を布告。9日、北緯50度の国境線を突破したソ連軍の動きに対して、樺太庁は13日、急遽本土への「緊急疎開」を決め た。大泊、本斗、真岡の三港を邦人輸送港に指定し、婦女子と14歳以下の男子、老齢者の引揚げが始まった。しかしながらソ連は、樺太西海岸の塔路、恵須取 に艦砲射撃を開始し、日本が「終戦の詔勅」を持って無条件降伏を宣言し、軍の攻撃停止を命じた翌日の16日、遂に樺太に上陸する。このことにより、邦人の 避難は加速。鉄道駅のある町まで長蛇の列をなして移動し、さらに鉄道や船舶を使って南下、西海岸の最初の輸送港であり、鉄道の中継地でもあった真岡に集結 した。
真岡町民の引揚げも16日から町区単位で始まった。郵便局電話交換室に努める女子職員も半分ほどが引揚げた。自らの意志で残った20名の交換嬢が、2組の 班をつくり、交代で24時間体制の業務に就いた。

ストーリー
1945年夏、太平洋戦争は既に終末を迎えようとしていたが、戦禍を浴びない樺太は、緊張の中にも平和な日々が続いていた。しかし、ソ連が突如として参 戦、日本への進撃を開始した。北緯50度の防御線は瞬く間に突破され、ソ連軍は戦車を先頭に怒濤のごとく南下してきた。
戦禍を被った者たちは、長蛇の列をなして西海岸の真岡の町をめざした。
真岡郵便局の交換嬢たちは、4班交代で勤務に就いていた。彼女たちに中には、原爆を浴びた広島に肉親を持つ者がいる。最前線の国境に恋人を送りだしたもの がいる。戦火に追われて真岡をめざす姉を気づかう者がいる。刻々と迫るソ連軍の進攻と、急を告げる人々の電話における緊迫した会話を、胸の張り裂ける思い で聞き入るほかになすすべがなかった。

氷雪の門

8月15日。全く突然に終戦の報がもたらせられた。敗戦国の婦女子がたどる暗い運命、生きられるかもしれないという希望、様々な思いが交錯する中で、樺太 全土に婦女子の疎開命令が出た。一人、また一人と、交換嬢たちも引き揚げて行く。だが、その中には命令に従わず、“決死隊"としてその編成に参加し、交換 手として職務を遂行しようと互いに励ましあい、責任を果たそうと心に誓う20名の乙女たちがいた。ソ連の進攻は依然として止むことなく、むしろ、激しさを 増した。戦争は終わったのではないか?人々は驚愕し、混乱した。

氷雪の門
それは8月20日、霧の深い早朝。突如、真岡の町の沿岸にソ連艦隊が現われ、艦砲射撃を開始した。町は紅蓮の炎につつまれ、戦場と化した。
この時、第一班の交換嬢たち9人は局にいた。緊急を告げる電話の回線、町の人々へ避難経路を告げ、多くの人々の生命を守るため、彼女らは職場を離れなかっ た。じりじりと迫るソ連兵の群。取り残された9人の乙女たち。胸には青酸カリが潜められていた。

局の窓から迫るソ連兵の姿が見えた。路上の親子が銃火を浴びた。もはや、これまでだった。班長はたった一本残った回線に「みなさん、これが最後です。さよ うなら、さようなら」と告げると静かにプラグを引き抜いた…