MACF礼拝説教要旨
2026年6月7日
「弟子たちの足を洗うイエス」
ヨハネによる福音書13章1〜17節
1さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、
世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。
2夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。
3イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうと
していることを悟り、
4食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
5それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
6シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。
7イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。
8ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、
あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
9そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」
10イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、
皆が清いわけではない。」
11イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。
それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。
12さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。
「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。
13あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。
14ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。
15わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。
16はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。
17このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。
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イエス様による「弟子たちへの最大の愛の表現」と考えることができる出来事がここに記録されています。
それは「足を洗う」という作業。
当時の社会では「客の足を洗う」という作業は奴隷に託された役割であり、結構な重労働だったと言われています。
当時の人たちはサンダルを履いて歩いたので足は埃で汚れやすく、それを落とすのは簡単ではなかったと思われます。
ところがイエス様は弟子たちの足を洗いました。
その姿勢から私たちが学ぶべきことはなんでしょう?
1)愛の表明
1さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、
世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。
:
3イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうと
していることを悟り、
4食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
5それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
イエス様にとって弟子たちの存在はかけがえのない「仲間・家族・味方・同志」という人たちでした。
これまでも、彼らに対して愛を示して教え、見せ、行動してきたイエス様がこの最後の時期に「足を洗う」
ということを示し、わたしはあなたの存在を感謝し、あなたを歓迎し、あなたの足がきれいになって同じ床の上に
立てることを最大の喜びとしていますという意味をもたせています。
2)ペトロの反論
5それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
6シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。
7イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。
8ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、
あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
9そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」
10イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、
皆が清いわけではない。」
ペトロは自分の主人が僕のような態度で自分に仕えることをとても意外に思い、また反論せざるを得ない出来事だったのです。
ところがイエス様は「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えました。
つまり、イエス様に足を洗ってもらうという出来事を喜んで受け入れるには「洗ってもらう側の謙遜さ」「洗ってもらわねば
私は同じフロアに立てない」という意識を持たなければならないのです。
イエス様に向かって「私の足など洗わないでください」と要求することは「私はあなたに洗ってもらわなくても十分
きれいなのであなたと目の高さを合わせて話ができます」と自慢しているようなものなのです。
私たちはそれぞれ、イエス様に洗っていただくことがなければ「神様と会うことはできないし、神様に神の家族として
受け入れられることは難しい」のです。
ヘブライ人への手紙12章14節に
「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。」と書かれていますが、聖なる生活の第一歩はイエス様に洗ってもらう、罪を赦していただくことが必須なのです。
3)互いになすべき謙遜な、愛の行為としての模範の制定
12さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。
「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。
13あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。
14ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。
15わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。
16はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。
17このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。
主であり師であるイエス様が生き方の模範として「足を洗った」のだから、互いにその道に倣うべきだと
イエス様は語っています。
私たちにとって「足を洗い合う」ということはどういう意味があるのでしょうか?
奴隷制度はありませんし、家に上がる時、足を洗うということもしていませんから、同じことはできません。
そうだとすれば「お互いに相手に対するしもべ」という意識をもって、相手をしっかり「受け止める」「受け止め合う」
ということが言えると思います。
安易に人を批判せず、非難せず、受け止めることや、指導的な立場の人が威張らないで静かに仕える姿勢をもって
いきることがとても大事ですね。
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