第二話
~『・・・しかして声天より来れり』~
1 わたしの講話はありのままに記録されるので、わたしの語ることは覚えやすくなる。話したことを全部記憶しておくのは難しいし、言葉の背後にある意味を〔聞く人の〕心に伝えるのも難しい。しかしよく注意すればおのずと理解できるものである。わたしの語る言葉は永遠の真理に満ちているため深遠である。
2 或る説明のできないものを心の伝えうる唯一の方法は〔それを解く〕鍵を与えることであって、それにより〔意味を把握し〕ドアを自分で開くことができるようになる。これが〔聖書にある〕『・・・声、天より来たれり』〔ダニエル書四-三十一〕という聖句の意味である。
3 天とは何かの場所ではなくて神の意識である。あなたたちは何を意識しているか。暫く考えてみるがよい。ただ自分自身のことだけを意識しているのか、外部のことを意識しているのか、目に見え耳で聞こえるものを意識しているのか。それとも内なる声を意識しているのか。この内なる声は自分自身の存在を啓示しようとして、かつ又その強大なる力をあなたたちの生活の中で啓示しようとして、待機している。
4 先週われわれがここに集ったとき、わたしは、無限なるもの わたしがあなたたちに話した生命と愛と は人間の感官の観念を遙かに超えていることを明らかにした。しかし又神は超大にして神秘であるとともに柔和で高ぶることをしない。神はあらゆる空間を満たしあらゆるものを創造(つく)り給う。この一切に遍満する生命を意識するようになるとき、それは魂のいと深き、またいと高き欣求(ごんぐ)に答え給う、なぜならば愛は愛自身を満たすからである。
5 この愛こそ世に存する唯一の力である。このことを徹底的に把握したとき、あなたたちはもはや恐怖(おそ)れることはない。愛は無限者おん自らの中心の泉より流れ、いと低きものよりいと高きものにいたる一切のものの中におん自らを表現(あらわ)し給う。それは鉱物より大宇宙に存するいと高き天使に至るまで、あらゆる界層の万象を貫き流れる。
6 先ず始めに、『吾あり』(*4)、そして又『永久(とわ)に在るべし』を徹底的に学ぶことである。あなたたちの現在の状態は霊的進歩のための機会である。あなたたちの今在る状態は極めて必要なものなのである。およそ存在するものことごとく霊であり、霊の他には何ものもありえない という大いなる真理を学びとるようになるとき始めてあなたたちの目より鱗(うろこ)が落ちる。
8 わたしは止むを得ずしてあなたたちの言葉や表現法を用いなければならないのであるが、これは霊的真理を伝えるには全く不適当である。しかしあなたたちは内なる霊に対して自分自身を聞くことによって、わたしの語ることが真実であることを知るであろう。
9 そこでわたしたちは、神とその子孫である人類について大いなる真理(複数)について共に考えてみよう。
10 あなたたち、本当のあなたたちは、外側のもの、目に見える形ではなく、また、現象我が本当のあなたたちでもない。なぜならそれはあなたたちの真我の相(すがた)とは遙かに距(へだた)っているからである。あなたたちは実在の中に住んでいる意識者、天よりの声である。この裡(うち)なる天よりの声を自覚するようになるがよい。そうすれば又わたしのことも分かるようになるであろう。
11 人は非常に美しい景色を観ればそれを画布(キャンバス)に描き度くなるものであるが、その結果はただその写しでしかなく実物とは全く比較にならない。あなたたちの場合もそれと同じである。
12 本物は霊の界層にあるのであって、そこにこそあなたたちは真我として実存するのである。外側のものは写しにしか過ぎず、五官を通じて外界に反応する心の技巧のために真我がボヤけさせられているのである。
13 裡なる実相を、その驚くべき愛と平安との力を、外に顕現せしめよ。全宇宙を貫いて存する創造原理は人間の目には見えず、天使達の目にも見えないが、ありとあらゆるものの中にある実相として、形成過程として、創造原理として実存し、それによって一切の目に見えるものが現れ出るのである。故に、無知と恐怖(おそれ)とで裡なるものを曇らしてはならぬ。
14 わたしは生命である。わたしは自分が生命であることを直覚知している。直覚知するが故にわたしは生命そのものである。およそ造られてあるものはわたしを通じわたしによって造られたのである。わたしと父なる神とはひとつである。なぜならば、その他に生命といってはないからである。
15 わたしの見るものや知っていることを言葉であなたたちに伝えることはできない。しかしあなたたちの裡に霊があり、それが永遠の今現に存続している栄光をあなたたちに啓明するであろう。
16 このみ霊の力に関する理解がペテロの信仰の基礎であり、又わたしの弟子たちに奇跡を演ずることを可能にしたのである。しかし法則がわかってしまえば奇跡は奇跡でなくなる。
自分の裡なるこの強大な力をあなたたちも又把握しきったとき、創造原理が他ならぬ自分自身の意識の中に実存し、自分の意識こそが創造原理の顕現される手段であることを知るであろう。
一切が自分の意識を通じて自分自身の生活に現れてくる。なぜなら意識こそが自分の中にまします父なる神ご自身であるからである。これがわたしの常に自覚していることである。これが又あなたたちも自覚しなければならないことなのである。
17 子供たちは物事を本能的に知る。子供の知りたいと思う多くの無理からぬ疑問が、その子供たちを導くべき筈の大人の無知のために、答えられないままに放置されている。これらの疑問は改めて尋ね直されることもなく、恐らく一生答えを得ないままに終わってしまうであろう。
真理を求める魂こそが門戸を開くことができるのである。なぜなら、『見よ、われ戸の外に立ちて戸を叩かんに、戸を開くる者何人なりとも、われ彼とともに入りて晩餐を偕にせん。彼われとともに在る』〔黙示録三章二十節〕からである。わたしと父とは一体である、このことは生ける神の偉大にして強力なる真理である。
18 この真理を悟れば、常に実存しているところのものをあなたたちの生活に実現させることができる。あなたたちの裡にあって、又あなたたちを通じて働く創造力の大いなる力がある。 しかしあなたたちはそれに気付いていない。この力は元来外に顕現するものであり、しかもあなたたちを通じて顕現しなければならないのである。何故ならば、その為にこそあなたたちは特別に創造(つく)られているからである。
19 わたしがこれまで語ってきたことについて、よくよく思いを致して欲しい。そうすれば、人間の我の心では説明のしようもない言詮不及の真理が悟れるのである。説き得ざるものはただ悟しかない。
何故ならば、説き得ざるものそれ自体こそ真理であり、それを悟って始めてそれは完全に顕現するからである。『それは何か』ではなく、端的に『それはこの通りのものである』と明示する底のものである。
20 あなたたちはありとあらゆる愛と生命との中心より流れ出づる大生命によって新しく創造することができる。かくして神の意志が天におけるがごとく地においても為される。しかもそれをあなたたちの中で今為しうるのである。
21 見えるものと見えないものとの間に或る壁があってわたしたちを引き離しているように思われるが、それは事実ではない。自分の心の中以外には障壁などないのである。互いをへだてる障壁は心の中にのみあるのである。ではこの障壁、この隔てを、理解と愛とによって除くがよい。
22 より大いなる神意識の中に入れば、もはや事物の影のみに満ち足りることはなく、真実なるもの、実在なるものをこそ求めるようになる。見えざるものこそが実体であり、見えるものは影である。
23 肉眼をもって事物を見れば事物が事物として感じられ目に見えるが故に、それを本物だと人は云う。しかし彼の見ているのは、不可視のままにとどまっているより大なるもの、即ち、創造力、生命、宇宙の中に久遠に存続する唯一の力、が外側へ顕れたものに外ならない。この力こそあなたたちやわたし、更に又生きとし生けるものの中にあって生きている生命原理である。この生命が愛であり、この生命が平安である。『わたしは生命である』。
24 あなたたちは自分達の間から偉人が死んでいくのを損失だと思う。しかしそうではないのである。なぜならばこれら偉大なる精神の所有者達はますます偉大になっていき、あなたたちを置去りになど決してしていないからである。彼らはこれまでよりも猶多く実在の中に生きている。
25 故にあなたたちは何ものをも失ってはいず、むしろこれまでよりも多くのものを得ているのである。あなたたち自身の身罷(みまか)った愛する人々を考えてみるがよい。彼らを失ってしまったとあなたたちは思い込んでいる。わたしは保証するがそれは真実ではないのである。彼らはこれまでよりも優れた者となっており、これまでよりもあなたたちに近いのである。
26 従って又、わたしもあなたたちを置き去りにしたのではなく、依然としてあなたたちと偕にあることが、今解ったであろう。わたしは世に在って世を変え、すべての人々が内在の真理を悟り、自分の神性を自覚するようにすべての人々の心を高めつつあるのである。
27 あなたたちは自分自身の真我を知れば知る程わたしを一層理解するようになるであろう。
28 たいていの人々の犯している大きな誤りは、わたしとわたしの弟子たちが何処か遠く離れた処に寄留していて、あなたたちをそこに入居させてやると称している何処かの団体から旅券を入手してあなたたちが其処へ到着するときまで待っている、と思っていることである。
29 特定の場所というものはないのである。ある意識の状態があるのみである。しかもわたしたちは今あなたたちと偕にある。この事をあなたたちが悟れば悟ほど、わたしたちはあなたたちの生活の中に入っていってあなたたちを援助することができるのである。
30 神意識とは一体自分にとって何を意味するのかを、今、考えてみるがよい。それはわたしの中にあるのと全く同様にあなたたちの中にある意識なのである。意識に違いはない。ただ違うのは、自覚、すなわち意識の悟りの程度である。
31 神の意識は部分々々に分裂しているのではない。従って自分はこの一部であるとかあの一部を形成しているなどと云えるものではない。神は一箇の完全なる全体であり、全体として神御自身を表現している。あなたたちは神の中に生き、動き、存在を保っているのであり、神はあなたたちの中に生きているのである。この事をあなたたち自身の意識によって自覚するがよい。そうすればあなたたちの意識は一切を支配する力となる。
32 未だ嘗て熱心な祈りが無視されたことはない。神はあなたたちが求める前にあなたたちの必要とするものを知り給う。
33 神は愛である。故に愛に満ちた心情(ハート)を以て神を敬わねばならぬ。息子がパンを求めるのに石を与え、魚を欲しがるのに蛇を与える者がいるであろうか。
34 真の愛については何も解ってないあなたたちでさえ、自分の子供たちに対する物の与え方を知っているとするならば、真の愛そのものである神は御自分に求める人々に対していかに遙かにより多くの善き物を与えられることであろう。
35 人々の中には、祈るとき神は遙か遠くにましますと思う者もいる。私はあなたたちに云う 自分 の密室に入り、扉(ドア)を閉じ、そこで秘かに祈るがよい。あなたたちの父なる神は秘かに聞き給い、あからさまに報い給うからである。
36 その意味するところは明らかである。あなたたち自身の秘められた室(ヘヤ)に全能者はまします。全能者は遙か遠くにましますのではなく、あなたたちの裡なる実在の生ける顕れであり、あなたたちの実在、あなたたちの真我である。
37 このことを知った上で魂の静けき極みにおいて秘所(ひそ)かに熱檮すれば、全宇宙が動き出し、あなたたちの求めるものをつくり出し、顕し出すのである。
38 まことの祈りはすべて瞬時に叶えられるものである。あなたたちの祈りもまた一瞬にして叶えられる時が来るであろう。あなたたちは祈りを実習しなければならぬ。心を平和にし、秘かに祈ることを実習しなければならぬ。受けたりと信じたとき得るのである。
39 わたしたちみんな、あなたもわたしもそしてわたしたちと偕にある他の人達もみな一つに結びついた大いなる無限の全一体であり、何の隔てもない。ただ愛のみの一家族であると悟ることは尊い。
40 このことは始めのうちは悟れないかも知れない。しかし真理のみ霊に自分自身を開きゆくにつれて、常にあなたたちと偕にある「慰め主」があなたたちにすべてを啓示するであろう。『吾は慰め主なり』。『吾は生命なり』。
41 わたしは生命である。わたしを信ずる者は死ぬことがない、たとえ死んでも生きる、なぜならばわたしはあなたたちの裡なる生命であるからである。わたしを信ずる者は永遠の生命を得る、故に死は存在しない、わたしは常にあなたたちの中に生きているからである。
42 それはすべての人々の中にあるみ霊と全く同じものである。太洋の一滴は全太洋と全く同じ性質を有(も)つ。わたしは到る処にいる。
43 悟りと愛とによってあなたたちはすべての魂に宿る神我の中に入るのである。なぜならば、『わたし』は常にその中にいるからである。
44 『わたしは常に主をわたしの前に立てた、なぜなら主は常にわたしの右手に在(い)まし、そこよりわたしが移らされることはないからである』と、あなたたちに語ったことをあなたたちは聞いたことがある。
45 神と人とが一体であることを本当に学びとることの何と遅いことか。あなたたちは自分を制約しているものを捨て去ることを恐れている。まるで子供のようにあなたたちは自分の玩具、自分の壁、仕切、教会、礼拝堂〔キリスト教〕、会堂〔ユダヤ教〕、寺院〔回教〕にしがみついている。ああ、あなたたち一同をわたしの翼のもとに引き寄せて、すべてのものの中にある共通の一なる生命を見せてあげることが出来たらと、どんなにわたしは思うことか。
46 あなたたちは、神が一切の生命であり、この生命は目に見える、或いは目には見えないが、完全なる愛であることを学び知るのになぜこんなに長くかかるのだろうかとよくいぶかったりするが、それは、真理を内からではなく外からつかもうとするからである。
47 なくなりはしまいかと恐れているものに、何とまあ誰も彼も同じように執着していることか。おのが生命を得んとする者はこれを失い、おのが生命を棄(す)てる者はこれを得る。
48 わたしは神我(キリスト)より語る、わたしは常にそうしてきた。わたしの言葉が外側にのみ住む人々にとって奇異に思われたのはそのためである。幾百万もの人々が今なお束縛の中にある。わたしの扉はすべての人々が自由に出入りしてわたしと食事を共にするように常にすべての人々に開かれている。
49 ところが悪魔がその道を遮(さえぎ)ろうとしている。その悪魔とはすべてのものが克服すべき偽我であり、感官という悪魔である。
50 果敢(はか)なき感官のこの迷いのみが真の霊意識の顕現への唯一の障害である。なぜならば天国は常にあなたたちの中にあるからである。二千年前も今も変わることなくわたしは生命である。モーゼとエリヤはわたしの地上への出現より二千年も先立ってはいるが、それはすべての人々に現れているのと同じ生命なのである。〔故に〕わたしはアブラハムより実存しているのである。
51 時間というものは存在しない。わたしは過去に存在したように今も存在しており、今後も常に存在する。このことを悟得すれば、あなたたちは自分も又全能者の生ける表現であることを銘記しなければならない、なぜなら、父なる神が常にあなたたちの中で働き給うているからである。
52 あなたたちの中にいます聖なる力はわたしの中にあるのと同じものである。あなたたちの意識がより偉大なる神意識へと展開するにつれてあなたたちはわたしを直接知るようになるであろう。
53 神我(キリスト)の声は無畏であり全きまでに強力である。神我は征服者であり、又今後も征服していく、なぜならば神我が一切のものを支配することが神の律法(おきて)であるからである
54 十字架という象徴は人の裡なる神我(キリスト)、手もて造られざる神殿〔肉体〕の中における覚醒(めざめ)、聖化、蘇り、昇天の謂である。これこそが征服者、神我である。その過程はすでにあなたたちに説明した。従って再説の必要はないが、わたしの語った言葉を再読すればあなたたちの裡なるみ霊が真理について尚多くを明かすであろう。
55 あなたたち〔の神我〕が展開するにつれて、み霊はあなたたちの心情(ハート)の秘められた房(ヘヤ)の中にある秘密をあなたたちの意識に明かすであろう。
56 神我(キリスト)とは神の言葉、神であった言葉、神と偕にあった言葉、肉となった言葉である。
57 これこそが父なる神の知り給うあなたたち、すなわち、実在の中にあるあなたたちの神我であり、従ってあなたたち自身が吾也として知らなければならないものである。
58 肉の感官の声は影の声、分離、制約、病苦、死を示唆する悪魔である。神の一人子、すべての父なる神我を固守せよ。
59 悪魔を恐れるな、恐るべきものは何ひとつとしてないからである。あなたたちとしては、「肉の心なる悪魔よ、我が背後(うしろ)に退がれ、わたしは人の子にして又神の子、征服者であるぞ。わたしは自分の力で生きるのではなく、常にわたしと偕にいます父なる神によって生きるのである。父なる神こそがわたしの導き手であるぞ」と云いさえすればよい。
60 わたしの中で、平安を得るがよい、とかってわたしは語ったことがある。世にあるあなたたちは苦難に遭うであろうが、勇気を奮い起こすがよい。わたしはすでに世に打ち克ったのであるから、あなたたちもまた世に克つのである。
61 神我は父なる神、すべてを支配し給うみ霊、生ける大生命のみ子であり、すべての魂の中に宿っている。聖霊とは、「吾は生命なり」と悟了したキリスト意識の完全なる現れである。何ものもあなたたちを襲うことはできない、なぜならばわたしは裡なる征服者であるからである。
あなたたちが自分自身の情念(ハート)と精神との中でこの真理を感じ得るならばあなたたちもまた征服者であり、従って無礙自在であることを知るであろう。かくて感官という悪魔は征服される。『サタンよ、わが後ろに去れ』。
62 では神我を通して神を拝するがよい。その他に道はない、未だかってあったためしもない、形ばかりを除いては。わたしはかつて生き、十字架につけられた者である。しかし見よ、わたしは尚も永遠に生きている。
63 わたしは道であり、真理であり、生命である。何人もわたしによるのでなければ父のみ許には参れぬ。キリストとは至上無限の生命意識が世に顕現(あらわ)れたもののことである。
64 神我は真理であり、生命であり、すべてを神に結び合わせる愛である。愛によってのみあなたたちは神と偕にあることができるのである。それは神が愛だからである。
65 わたしは愛によって父なる神と一体である。汝魂を尽くし、情念(ハート)を尽くし、心を尽くし、力を尽くして汝の神なる主を愛すべし。汝の隣人を己自身のごとくに愛すべし。
66 キリストは世に降誕した神の子であり、世がその相貌(すがた)を変えるまで世に留まる。故に天において成就されている父の意志は地上においてもまた成就するであろう。
67 神に対する呼び名のひとつに『われわれの父』というのがある。これはわたしの知るもののうちでも最善のものである。あなたたちが自分を創造(つく)り給うた方についての智識が増えるにつれて、この呼び名はいよいよ含蓄(がんちく)の多いものとなるであろう。
68 あなたたちはこの父なる神の映照であり、肖像(にすがた)である。父と自分とが一つであることを願ったとき、もともと常に実存していた結合関係があなたたちにもそれとわかるようになる。しかしこの言葉が単に言葉として心の中に留まるだけであってはならない。本当にそれを了解しなければならない。この言葉の本当の意味はあなたたち自身の中からのみ来る。
69 あなたたちが今耳で聞いていることはあなたたちの記憶にとどまるであろう。わたしが語ったこれらの言葉をあなたたちは忘れることはないであろう。それはあなたたちの心情の中にゆだねたい、やがて真理のみ霊があなたたちの中に顕現(あらわ)れ始めるであろう。
すでに神の意識の中に確立されたものは人の意識の中にも確立されなければならないのである。父なる神との一体を体得することによってかくのごとき意識はあなたたちの中に確立されるのである。
70 このことが事実であることをわたしは知っている。意識のより高き界層へと移って行った人々はすべて、このことを悟得することによって生ずる強大なる力を理解し始めている。
71 今宵わたしが懸かっているこの人体は、現にあなたたちが見ているように青年の姿であり、願貌は活力に満ち、肢体はあらゆる細胞を再生する力で満ちている。それはわたしの意識が今彼の意識と一つになっているからである。わたしが彼に懸かっているこの瞬間、愛するこの同胞の意識はわたしのそれと全く一つなのである。実在においてわたしたちの間には何の分離もない。分離とは心の幻影である。
72 この広大なる真理の何と偉大なることか。この力をあなたたちが今受け容れるならばあなたたちの肉体はすべて生命で満たされるのである。それは、父なる神があなたたちの中にも又いますからである。
73 わたしの父なる神によって一切がわたしに託されている。父を除いては誰がその子であるのか、何人も知らない。又子を除いては誰がその父であるのか、更に又、誰にその子は父を明かすのかは何人も知らない。
74 このような話しはあなたたちには奇異とも思えようが、深く考えればその内なる意義が明らかとなるであろう。
75 父は子を知り、子は父を知る。子は又自分が明かしたいと思う人々に父を明かすこともできる。子は父を知り、父は子を知るからである。
76 あなたたちが今見ているところのものを見、聞いていることを聞く人々は祝福(さいわい)である。
77 わたしは勝利の力を与えられている。なぜならば子は父の中に住み、父はこの中に住んでいるからである。まことにも輝かしいこの真理を只の言葉で説明することがどうしてできよう。あなたたちの裡なるみ霊、常にあなたたちと偕にあって御自身を現そうと待ち構えておられるため主によってのみ、この真理は知り得るのである。
78 求めよ、そうすれば贈り物はあなたたちのものとなる。探せよ、そうすれば見出す。叩けよ、そうすれば戸は開かれる。求めるものは受け、探すものは見出し、叩くものには戸が開かれるからである。
79 『何であれ、自分にして貰いたいと思うことを人にしてあげよ』。人の長所、欠点を見れば、それが自分の中に固定してしまうことを心の奥深く知るがよい。また自分に人からして欲しいと思うことを先ず人にするがよい。
80 明日を思い煩うな。「今」のみが唯一の時間である。今を自分の実在とせよ。そうすれば明日のことは明日自身が処理するであろう。では、未来を思い煩うのあまり奇(く)しき今を逸するなかれ。意識は今の中でのみ創造をなしうるのであって明日においてではないのである、また昨日においてでもないのである。昨日は記憶に過ぎず、明日は希望に過ぎない。今こそが唯一の創造をもたらす瞬間である。
81 あなたたちは毎瞬々々神のみ心の中で創造することができるのである。そしてそれは実に、「今」である。あなたたちが神のみ心の中で「今」創造したものはすでに確立している。故に明日は明日自らが処理するであろう。
82 泣く者とともに徒(いたずら)になくことなく、裡に君臨する強大なる愛をもって彼らを助けるがよい。母がその子を愛するがごとくにも、すべての人々に対して愛を感じなければならない。至と高き者より至と低きものに至るまですべては神の子である。このことを認識したとき、そこにはただ一つの家族があるのみであり、何らの分離もないことを知るであろう。
83 利己的とならぬように努力せよ。これが受容性の秘訣である。あなたたちはみ霊の一かけらではなく、全体と一つなのである。み霊がみ霊自身から引き離されることはありえない。
84 真にこのことを悟ったとき、変貌(トランスフオメイション)がおきる。なぜなら受容性とは受けることだからである。実は、神は常にその賜物(たまもの)をすべてのものに注いでいるのであって、もしこの賜物が欲しいのであれば心を開いて受けさえすればよいのである。この受け容れることこそが偉大なる者の秘訣である。すべて真実なる生き方をしている者の秘訣は非利己的なことにある。故に与えることは受けることである。
85 わたしが今この瞬間に見ていること 即ち、以上のわたしの説話に幾千人もの霊たちが聞き入り、神の愛は天界と等しく地上界にもましまし、内界と等しく外界にもましますことをいよいよ深く理解していること があなたたちにも又見えたときのあなたたちの思いはどのようなものであろうか、と考える場合がよくある。
86 「もしあなたたちにわたしが解るならば、わたしの父をも又理解するであろう。しかしもしわたしの父が解らなければ、どうしてわたしが解ろうか、どうしてわたしの言葉が理解できようか」。とわたしは言ったことがある。
87 わたしは神我より語るが、あなたたちはいづこより語るのであるか。いずれは亡ぶべき感官からか。種々様々の条件に反射するのか、それとも自分自身の裡に神の力が宿っていることを悟っているのか。『吾は生命なり』、『吾は真理なり』、『一切を支配する』との意識を持っているのか。
88 あなたたちの中に父なる神がいます。そのことが解れば父なる神はあなたたちを通して現れ給う。これこそが世の光であり、世は光に克つことなく、光こそ闇に打ち克つ。わたしは世の光である。闇はわたしの光のために消える。
89 それは人の光であり、無限なる愛と智慧との顕現(あらわ)れであり、人類の中に完全なる状態を創造(つく)り出す。
90 あなたたちの存在の本源は神である。このことに目覚めるようになったとき、子〔イエス〕の中にあり又あなたたちの中にもいます父なる神を知るであろう。
91 肉の感官意識が神我(キリスト)意識に気付くと、感官意識は昇華して神我意識となる。わたしは神我として世と世にあるすべてのものとに打ち克った。わたしは肉の感官、肉の心、五官という悪魔に打ち克ったのである。あなたたちも又その通りになるであろう。かくして、あなたたちは天からの声〔ダニエル書四章三十一節。マルコ伝一章十一節。マタイ伝三章十七節。ペテロ後書一章十八節〕というのが実は神の意識であることを悟るであろう。
92 人は自分の想念によって自分の獄壁を造る。自分で造りだした観念によってその通りに制約される。あなたたちの造り出す観念の中最大なものでさえ実は一箇の制約でしかないのである。問題は。生命とは何かと論(あげつら)うことではなく、これが生命であると身を以て断定することである。
93 具体的な形象を持っている類(たぐい)の界層における被造物は不可視の内因の結果である。あなたたちの肉体は猶一層の発展に向けての出発点となるものであり、その発展は、み霊こそすべてこれ常任・唯一・久遠の本質であり、力であり、生命であると自覚することによってなされなければならない。その示現(あらわれ)が愛である。
94 情念(ハ-ト)を尽くし、魂を尽くし、心を尽くして汝の神を愛せよ、汝の隣人を汝自身のごとくに愛せよ。これが人類という礎石(いしずえ)の立つ律法である。
95 放蕩息子の寓話の中に父の愛が示されている。息子の放逸、その悔俊、自己自身即ち真の霊的状態の恢復(かいふく)。先ずもろもろの艱難辛苦(かんなんしんく)をなめ、せっかく承け継いだ財産も蕩尽(とうじん)し、やがて自ら進んで一僕(いちしもべ)となるために帰還するがやがて本来の息子となる。
96 息子がたとえどのようなことをしたにしても、父の愛は一切の誤ちを消してしまう。父の愛はそれほどに大きいのである。この事がどんなに正しいかはあらゆる生活の中で証されている。真理に気付いたとき誤ちは矯(ただ)される。それはひとつの体験であり、この体験を通じてあなたたちは種々様々の状態より起ちあがって自分自身〔真我〕を語ることができる。そのとき誤ちは消えて無くなり、真理が太初(はじめ)以来の真理そのままの相(すがた)を現す。
97 悔い改めが赦しに先行する。父の愛が解ったとき始めて心底(ハート)より悔い改めが起こり、その時彼は真に赦されたのである。かくて彼は彼本来の霊的状態、即ち自分自身が神の中にあるという自覚、を取り戻し、喜んですべての人々の僕となり、自分が他の人よりして貰いたい通りのことを人々にするようになる。
あなたたちが放蕩息子のようになって始めて御馳走はあなたたちの前に並べられるのである。では家の中に入り、兄弟姉妹への愛をもって今こそ御馳走に与(あずか)るがよい。愛によってのみあなたたちは父があなたたちの為に準備し給うた御馳走を戴くことができる。
98 このことも又、あなたたちがこの地上で学び取らなければならないことなのである。これまであなたたちは、自分の尺度で悪いことをしたと決め込んだ人々に対して愛を出し控えたことがどんなに度々あったことか。そのような断定はあなたたちの関知することではさらさらないのである。それはすべて父なる神とその子との間のことがらである。このことをよくよく銘記するならば、あなたたちは他を批判することがなくなり、批判という武器はむしろまず第一に自分自身に対して向けるようになるであろう。
99 真っ先に自分自身の誤ちに気が付けば他の人々を前より一層よく理解するようになる。 100 あなたたちはこれまでとかく人々を批難しがちであった。自分が批難されないためには、人を批難せぬことである。先ず己が目(まなこ)より梁(うつばり)を取り去るがよい。そうすれば同胞の目の棘(とげ)の取り方も前より一層解るようになるであろう。
101 われわれは到る処でわれわれの媒体を見つけては、今此処でしているように、秘められた方法で世界到る処で真理を説いている。それも物質界だけではなく、自分の存在の本性をまだ認識していない者のいる内界(複数)〔霊界〕においても又説いているのである。
102 わたしはあなたたち丈ではなく、あなたたちの俗眼では見えない人たちにも語っているのである。彼等が真理を会得したとき、彼等は前途に待ち設けている栄光に向かって邁進するであろう。彼等はその意識が更により高き状態に高まりゆくにつれて自分がもはや地縛の存在ではなく、自分が心の中で勝手に造り出していた束縛より放たれ、無礙、自在であることに気付くであろう。わたしの言葉を受け容れるがよい。そうすればあなたたちも又無礙・自在となる。
103 あなたたちの胸(ハート)を、神と全人類とに対する愛で満たしつづけるがよい。そうすれば、わたしは多くのことをあなたたちに教えよう。
104 わたしはもともと単純であり、到達し易い〔存在〕であるから、たとえわたしの語る事が全部は解らないにしても、わたしの語ることをよく聞き、それに波長を合わして待つがよい。
105 すべての人が神について教えられるであろう。と予言書の中に書かれている。故に父なる神について聞いたことのある者、学んだことのある者はすべてわたしの許に来るがよい。
106 光り闇の中に輝きてあれ、と命じ給うた父なる神が、わたしの胸(ハート)の中に輝き給い、光りと神の栄光についての悟りとを与え給う。
*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*
======平安と愛あなたたちと偕にあれ======
おお永遠の父なる神よ。わたしたちのすべてに貴神の神性が植えつけられています。わたしたちは貴神の臨在を体得し、貴神の神性がわれわれの生命・生活・生涯の中に御自身をあらわし給い、生きとし生ける者を祝福し給い、ありとしあらゆる者を貴神に引き寄せ給いつつあることを知りました。愛なる父よ、貴神の息子が語る時、愛と理解とを以て貴神のみ言葉に耳を傾ける者、又読む者を祝福し給わんことを。アーメン。
書記のことば
文字は、人に霊感を与え、教えるところ多いものではあるが、大いなる価値の真珠のように師〔原著者〕の口から連なり出るみ言葉にひたすらに傾聴する人々に、忘れ得べからざる体験を与えた偉大な臨在を描写しつくすことはできない。とはいえ、これらの文字は深き理解と愛とを以て読む者すべてにとって大いなる価値の真珠とはなりうる。