~第八章 匿名師の説く解脱の真理・患者指導の仕方(二)~ 

オクの僧院はあらゆる点でマントウンに似ていた。私は友人の方のすぐ隣に部屋を与えられた。それは元来は僧院長の予備室で、寝室とクッション付きの別室から成り、床にはチベット絨毯が敷かれて、見るからにこじんまりと居心地がよさそうである。水は僧院の上の山に積もっている雪に源を発して、僧院の横を流れる川から沢山汲み出せることになっている。

身体を洗い身綺麗にしてから私は一人の若いチベット人に紹介された。年は二十五才そこそこで、名はツァン・タパと云う。大変知的な顔をしており、この僧院の神子(みこ)である。リンポチェ大師ご自身が私に語ったところでは、この青年はリンポチェ大師がまるで御伽噺(おとぎばなし)のような経緯(いきさつ)で見つけたそうで、事の次第はこうである。大師が例によって旅に出ておられる時にこのツァン・タパに出合った。

その時彼はわずか十五才で、エヴェレスト山のずっと後ろにある谷での出来事である。その時迄師は何日も食事を全然とっておらず、又その時も取れそうでもなかった。そういう状態のところへ、このツァン・タパ少年が何処からともなく現れて、大師に食べ物と飲み物とを提供すると、いきなり恍惚状態に入った。するとマラレパ大聖者が彼を通じて語り、ツァン・タパの持っている色々な奇跡的な力をリンポチェ大師の面前で実演させて見せた。

この若者を通じて語っているのが本物のマラレパ聖者御自身、あの奇跡の大行者、であることはもはや疑いを容れなかった。恍惚状態から覚(さ)めると、少年は、リンポチェ大師がこちらへやって来るが食べ物がないと告げられたので食べ物をもって参りましたと語り、大師を秘密の路伝いに案内し、やがて大師の前に、沢山のヤクが草を食んでいる立派な谷が開けた。

師がヤクの持ち主を聞くと、「主よ、私のです」と云う。不思議なことだと思い、「御両親は何処におられるのかね。」と聞くと「ハイ、ずっと遠くに居ります。」と答える。大師はいよいよ興味を唆られ、どうやって此処までやって来るのかと聞いた。「ハイ、私はこうやって参ります。」と答えると、ルン・ゴン・パをやり始めた。これは極めて世の常ならぬことである。

一介の少年がどうやってルン・ゴン・パが出来るようになったのだろう。「誰が教えたのかね。」と大師が尋ねた。「あの方です。」「あの方とは誰方のことかね。」すると又「あの方」と云う。その様子は彼と一緒に誰かがついているみたいである。大師はこの少年が今までに出会った中でも最も優れた生まれつきの霊媒であることがすぐに分かった。

そこで大師はこの少年を大師の知っているカリンポン地区のある勝(すぐ)れたヨーギの処へ連れて行かれたのである。少年はこのヨーギの許で七年間を過ごし、ここ三年間をオクで神子をしており、今ではその地位は僧院長よりも高いという次第である。この実話にわたしは大へん興味を惑(ひ)かれ、ツァン・タパ少年にヒンドスタン語で話しかけてみた処が、彼は英語で答えた。

これにはすっかり魂消(たまげ)てしまった。少年がインド人のヨギの許で修行している間、このヨギは少年をカリンポンにある英語学校に入学させ、そこで少年は同クラスの者がついて行けない程急速に英語を修得したものと思われる。事実彼は極めて成績優良な少年であったことを私は後になって確かめたことであった。

彼の霊媒能力は群を抜いて鮮(あざ)やかであった。私たちは大変親しくなった。彼の霊媒ぶりのお陰で物質界を去った多くの人々に接することになったが、それが皆正確で、彼を通して語る霊達の身許にも何らの疑問もなかった。私は僧院を司(つかさ)どっている僧院長にも紹介された。彼も又英語が話せるので話のやりとりがし易く、通訳の必要もなかった。

僧院長は愉快な人で吾々を笑わしてばかりいた。全く彼の笑い方ときたら伝染性が強く、私も笑わずにはおれなかった。私はハントリー・パーマー会社の十ポンド罐入りのビスケットを数個持参していたので、三名(私を含めて四名)が喜んで喰べてくれた。これ以上の土産はなかった。茶を喫し、ビスケットが長続きするように惜しみ惜しみ喰べたものである。

僧院の食事は、肉、大麦、ジャガイモ、ツァンパ、それの多量のヤク・バター、ミルク、クリームとチーズ等で大変よかった。ロースト・チキンやローストポティトも一週に少なくとも一回、時には二回も出た。夕方近くなったので、私はチヨモリハリに沈む日没風景を見たいと所望した。それでみんな揃ってメイン・ホールの頂に上った。屋根は平たく、その上から眼下の渓谷が見下ろせた。その彼方にチヨモリハリ山があった。

此の世ならぬまでのこの美観は、言葉で適切に描写のできる筈はないのであるが、余りにも美しきが故に、それを敢えて試みようとする次第である。日はわれわれの背後、チヨモリハリの側に沈みつつある薄紅の色合いを、私はどうして描き尽くすことができよう。かくの如きまでの美は世界のいかなる土地でも未だ嘗(かつ)て見たことはない。

淡紅色(ピンク)が深い赤に移り行くにつれて谷から紫の靄が湧き上がり、その色も次第に濃くなり、終(つい)に雲となって山を這い上がり、次第々々に山を覆い、やがて太陽の燃える赤を反射しているのは山頂だけとなる。その山頂もやがて消え、眼前には紫から赤に至るまでの、スペクトラムのあらゆる色彩に輝く毛氈(もうせん)が現れ、谷も山もすっぽりと包んでしまった。(言葉は力足りず、描写は貧しいものにしか成らぬ。)

日の出も又これに劣らぬ美しさであったが、移り行く色の様は反対であった。日が昇るにつれて毛氈は溶け始め、日没の時とは反対の色合いを見せてくれるのであった。まことにそれは戦慄するまでの忘れ難い体験であった。吾々は、する事が沢山あったので日の出前に起床した。私は始めのうちは勝手が分からなかったが、万事は巧く行くと思い満足し切っていた。

さて、この友人の方は師家としての法衣を着けられた。その英智と現実的知識とは奥深く、リンポチェ大師とは同じ悟境に居られる。澄んだ声調で師が話し出された。何かはしらぬが大事な事を云おうとしておられる。吾々は真剣に耳を澄ました。

「真理は心の中で造り上げられるものではない。自分を支配する宗教や、人間自身を喰い物にする文明を造り上げるのが一般の人間のやっている為体(ていたらく)だ。彼らは本当の真理が分からぬために、何か自分達を導くものが欲しいのだ。こうして結局彼らは自分で造り上げたものの奴隷になる。」

ツァン・タパ自身は自分の教団の宗教をどんな風に受け取っているのだろうかと思い、彼の顔を窺った。私のこの思いを読みとったらしく、師は云われた。「ツァンのことを気にするには及ばない、彼はとっくの昔に奴隷の枷(かせ)を外してしまったからだ。」ツァンに或ることを話しかけようとした時に、この友人の方は又話を続けられた。

「大ていの人々は『一体』という理想を一応掲げてはいるが、実際には区別や分け隔てにしがみついている。現にいろいろな信条や国籍、宗教上の信仰、政治上の差異を捨てることを拒んでいる。それというのも、そういったものによって縛られているからであり、その為に又、そういったものがニセモノであることに気付かずにいる。実在に区別はないのである。

従って、宗教であろうと、国籍であろうと、理想、信仰であろうと、人間と人間とを引き離すものはニセモノに外ならない。ところで、平安(やすらぎ)を見出し、解脱を見出す為には、人は祈らなければならないと云われている。そこで人々は平安や解脱について瞑想する。そのため人々は尚一層縛られることになる。

自分の心の中にあるものによってどんなに人が縛られ、その心の中にあるものが如何にして形造られてきたかを知らなければ、その瞑想も祈りも役には立たないのである。何の為に分け隔てが生ずるかを知らなければ、いわゆる『一体』にせよ、平安にせよ、解脱にせよ、その他いかなる名称のものにせよ、それはただ頭の中で造り上げた一コの観念にすぎない。」

「あなたはリンポチェ大師にほぼ似たようなお話をなさいますね。」と私が云うと、「息子よ、解脱への道は只一つあるのみである。それは人々がいかに縛られているかを示すことである。私が君を解き放ってやるということはできない。君が自分自身で解脱しなければならないのだ。その時始めて君は一切の被造物の背後にある巨大なる創造力、君の心の彼方にある至高の愛と英智とを見出すのである。

とは云っても、君自身の心はこの至高の愛と英智との顕現の手段である。かくの如き至高の愛と英智とがどうしてニセモノに充ち満ちた心を通って顕現することができよう。そのような心の状態ではキリストたる霊の英智と愛ではなくただ自己限定したものを出すだけである。私が君を此処へ連れてきたのもその為である。君の心は主の神懸(オーヴァ・シャドーイング)かりにふさわしい浄潔、明澄でなければならない。

さもなければ君は君自身の自己限定したものを現し出すだけに終わってしまうであろう。君がこの土地を去った後でも、君の心は吾々が君に望んでいる奉仕〔特にキリストの神懸かりの為に心身を提供すること〕への用意は完全にはできていないであろう。世の人々にまじって、猶幾年もの試補の仕事を続けていかなければならないであろう。

吾々の仕事は、心の中で 造り上げられたものは真理ではない事を君に示すことによって、君を神懸かりに備えることである。君自身の日常の仕事の中でこの事を会得する体験の方が、こちらに今迄の倍もの期間滞留するより以上の心の掃除になるのである。君が俗世で仕事をする時、吾々は君を援助しよう。いや君だけでなく、君が助けようとしている人々をも援助するであろう。

「世界には私以上に尊敬されている偉(すぐ)れた方々が沢山おられますのに。」「息子よ、この仕事のために君は生まれてきたのだよ。」「しかし、私たちがそんなに迄正確に運命づけられるということはありますまい。」「『一羽の雀すらその地に落ちるを父なる神は知り給う』と主〔イエス〕は云われたではないか。」質問の都度切り返されたが、今度こそ最後の一発を射ってやろうと思った。

「兎に角、私としては思う儘に行動する程の自在〔解脱〕の境地には達してはいません。」「いや、達している。君は何も外部から強制されているのではない。君自身の内部から促されているのだ。それが君の最も奥深くにある願望となるのだよ。」「そういう事であれば、自分がどうなろうと飽(あ)く迄この仕事をやって行きたいと思います。」

「では先へ進むことにしよう。君の心の中の掃除が前よりもよく出来ておれば、吾々は現実的な仕事に取りかかれる訳だ。それを私は出来るだけ早くやりたい。君が自分を独自の存在だとする観念(かんがえ)を少しでも持っている限り、色々な相互関係における葛藤から解き放たれることは不可能である。従って、本当の瞑想や本当の祈りとは、ニセモノを見つけ出すことであって、自分自身の中や自分の周囲を支配し続けている葛藤の原因を知らないままで、只単にある考えに精神集中することではないのである。

人々はいわゆるマントラ〔真言〕と或種の文句を繰り返し、それを以て瞑想や祈りをしている気になっているが、それは自己催眠にすぎない。瞑想とは、或る考えに専念することではない。他人を崇拝するのは偶像崇拝であり、愚(おろか)かな迷信である。或考え、或画像に精神集中するのは瞑想ではない。それは自己よりの単なる逃避である。それは快(こころよ)き逃避ではあろうが智慧なき逃避である。

世界とは人々のことであり、人々は世界である。である以上君は世界であり、私は世界である。そうじゃないかね。」「そうです。仰(おっしゃ)る通りです。世界とはまさしく吾々が意の儘に造り出したものです。吾々は自分でこの文明を造り出しておきながらそれによって支配されているのです。」

「その通り。人々は奴隷となっている。何故なら自分で自分自身を奴隷にしているからだ。社会や国家におけるもろもろの伝統や信仰や差別によって考えや感情が捉(とら)われ、他人の尻にくっつき、真似をし、もろもろの権威なるものを立てている。一人々々が只順応しているだけで、自分自身の行為の世界で獲ち得た安心なるものもニセモノである。」

「それはよく分かります。相対的な世界には、これで安心という事はないのであって、それはただの幻想なのです。」「その通り。人々は立派な人物になろうとして絶えず努力はしているが、その途中の過程が悟りを妨げ、彼をその虜(とりこ)にしてしまっている。自分の心を統御(コントロール)することなど実は不必要な努力なのだ。そんな事をすれば、恐怖と限定をもたらすだけである。

何故なら、心は、自分の恐れている内外の影響から逃避しようという考えによって、支配されるからである。何かある善くない考えが心の中に入り込むとどんな事が起こるか。その影響から逃れるためにそれを払いのけようとするのではないか。しかしその正体がよくは把握されていないために、その影響は依然として残っている。

自分の想念の正体をよく把握して対処しないと、足掻(あが)き、糾弾し、非難し、揚句にその陰の反対のある考えに無理に自分の注意を向けようとして、反ってその為に一層葛藤を造り出してしまう。こうして物の考え方が、少しでも創造的ではない無益な苦闘の中に捕えられてしまうのが分からないのかね。」事態の真相が次第に私に分かってきた。

ツァンが、「主よ、このおしまいのお言葉だけでも感謝です。」と云った。「或る考えが自分の心を支配したら、その正体を知るべきであって、それと闘ってはならない。考えというものは全て何か他の事物の結果であって、その事物の値打ちを知らなければならない。そうすれば、いかなる苦闘も、恐怖も、限定も混乱もなくなるのである。

君の心に、いかなる葛藤も、緊張も、苦闘もなくなって始めて君の心は値打ちを生ずるのである。それが無くなって始めて平安が生ずる。吾々の仕事の為にはこういう心をこそ君に持って欲しいのだ。」と師は私を見詰めながら云われた。「君は毎瞬々々自分の心の状態を警戒していなければならない。そういう心構えを日常生活の中で涵養(かんよう)しなければならない。

自分の特定の精神分析をする時だけではなく、常に『現在』の中で監視していなければならないのである。そうすると心の中で起きることが分かるようになり、自我がどんなものであるかの理解が進むようになる。自我を知ることが英智と真理への関門なのである。」それから師は僧院長を指して云った。「彼は霊的人物になろうと努めて、善悪の葛藤の中でもがいている。人の真似をし正邪の相剋(そうこく)『たがいに争う事』の中に捕らえられている。」

わたしは心の中で、「僧院長さん、これはあなたへの説教ですよ。」と独語(ひとりごと)した。しかし大師の話はそれだけで止まらなかった。「僧院長は善悪の釣合(バランス)の取れた都合のよい仲間が探せると思っている。また神がこの釣合を実現してくれると思って祈り、詠唱し、模倣し、順応し、自分の迷信の中に閉じ込められている。彼がニセモノを見分けさえすればホンモノが分かってくるであろう。

霊的になりたいという渇望は、結局、挫折と悲嘆と矛盾とを意味するだけである。」私は僧院長の方を見たが、彼は何とも言わなかった。師はさらに語り続ける。「善悪は同じ樹に生(な)るものであり、根は同じである。その根は人間の心の中にだけあり、そこで造り上げられ、何ら真理の中に基礎を置くものではない。」ツァンは私の耳にソッと囁いた。「僧院長が今お説教を喰っていますよ。」師はそれを聞きとったか、または彼の心を読んだと見えてやさしく言った。

「ツァン、君もだよ。」師はさらにつけ加えられる。「真理自体は善悪、過去、未来については何も知らない。真理とは各瞬間から瞬間にかけての今、生命の活気凛々(りんりん)たる表現である。その中にはいかなる分け隔(へだ)ても死もなく、久遠にして常在である。この法悦の中にこそ無限の愛と英智とがある。かくて君は過去に逃れず、未来を空(むな)しく夢見ず、常に現在(いま)に生きるがゆえに、君の為すすべてはそれに応(ふさ)わしきものとなり、その報酬(むくい)もまた瞠目(どうもく)〔目を見張る〕に値するものとなる。」

「さて、息子よ。」こんどは私に向いて語りつづけられた。「このように心平穏であれば生きる悦びがあり、心を統制したり分析したりする必要もない。なぜなら不断に自らの心の在り方を警(いまし)めているからである。かくして君はかくあらねばならぬとか、そうあってはいけないとか、自分の我(が)で考えて緊張や恐れで心を満たす源泉(もと)となっていたもろもろの美徳や不徳なるものから解放される。

様々の美徳のかたまりから解き放たれれば恐怖もなく、対立するものもなく、混乱もなく、矛盾もなく、ただ愛と英智とがあるのみである。なぜならば実在の中にはただ愛と英智のみがあるからである。その時初めて君は真に創造する者となり、主〔イエス〕が再び語り給う時の器(うつわ)となるのである。もし君が何かに『成ろう』として不断に自我と取り組んでおれば苦闘の絶え間はない。

しかし、『自分自身〔真我・神我〕が実はすでに今そうである』と知った時、その時初めて無礙・自在の生命は顕現するのである。自分がいつか分からぬ遠い未来ではなく、実は今すでに完全である実相についての理解を欠くために、君のこれまでの考えること為すことすべて限定されてきたのである。」師はなおも説き明かし続ける。

「無限、無条件なるものを理解するためには、心が我の思いという重荷を、背負わされてはならない。本来無である我は融け去らねばならない。そうして初めて実在〔神・神我〕は『今』の中に実在〔神・神我〕自身を現すことができるのである。『わたし、みずからは、無である』〔イエスの言葉〕。」私は自分の中に深い変性(トランスフォメイション)の起きるのが感じられた。

曽(かつ)てわたしを悩ました事物は今やわたしの中より消え去った。そして私はその旨を師に告げた。「息子よ、それを聞いてわたしも嬉しい。」と師は答えてまた語り続けられた。

「君の心が倫理の矛盾〔忠ナラントスレバ孝ナラズ、孝ナラントスレバ忠ナラズ式の矛盾〕を背負っていた間は、君は自分の実相〔神我〕という真理を悟ることはできなかった。しかし今や君の心がもろもろの倫理、道徳、差別、分け隔て、区別によって縛られなくなった以上、君は一切の反動、時間、断絶、対立物に煩わされることなき、私の謂(い)う自然法爾(じねんほうに)〔自(おのづ)と動き出て而も法(真理)に叶う事〕の行為が何を意味するかを会得するはずだ。

今や生命の流れが生命自身の本来の業(わざ)を為す。主イエスの言葉を借りれば、『わが内に常にいますは父なる神なり。父なる神こそみ業を為し給う』のである。」

「君が口から出した言葉が空しく君に返ることはなく、その目的を為し遂げるであろう。」それから師は僧院長を見てからこう言われた。「そこにいる僧院長を見るがよい。僧正達もそうだが、まるで自分達の座っている座席のように無力な言葉を練り出している。」この言葉に僧院長は驚いて、「師よ、わたしは周囲の仕来り全部を信じているわけではありません。」と言った。

「それではなぜそこから出て人類への本物の援助者にならないのかね。」僧院長は頭を垂れた。師は言われる。「『呼ばれる者は多いが選ばれる者は少ない。』」師は僧院長に向かって言われる。「実在においては現在(いま)があるのみである。過去も未来もない。この悟りを空しく延期して後日に俟(ま)つことはできない。君は自分をニセモノの美徳から解き放つことだ。

そうすれば君はこれまでの蒙(もう)〔無智〕を開かれるであろう。そのためには自分のもろもろの想念や動機や、私が今君に話していることへの君の反応などをよく見分けなければならない。そうすれば、無智とは学習欠如ではなく、価値の混乱と葛藤であることが分かるであろう。僧院長よ、君は思いまどっているのかね。何が正しく何が誤りかを決めかねているのかね。

そうであれば君は心の中ではいろいろな考えが葛藤しており、その中に君は巻き込まれ捕らえられているのだ。君は模倣者なのだよ。君は既成のある型に自分自身を当て嵌(は)めようと、実在とはかくあるべきだと自分で一つの像を造り上げてしまい、御丁寧にもそれに合わして自分自身を形成して行き、結局実質、すなわち〔神・神我〕自身を失ってしまっているのだ。

君のその物真似によってどうして常在する大生命の永続的悦びを実現することができよう。生命は常在であり、別々に分離しているものではない。真理とは縛られることなき一体性である。君の心が形式や儀式や差別、区別に捉われている限り、君にはこのことが理解できない。ニセモノを、今、徹見することによってのみ、僧院長よ、君は真実なるものを語りうるのである。

権威を建て、それを崇めるのは、君の中身が貧しいからだ。君は自分には仕事をやりおおせるだけの力量がないという感じがするからこそ誰かに頼るのだ。君は実在〔実相〕ではないある考えを慰めとしてその中に避難しようとしているのだ。君の考えは幻想に過ぎないのだ。君自身が手足もろとも縛られているように君はこれらのラマ僧達を縛りつつあるのだよ。」その後師は私に向かってこう言われた。

「生命は実在であり、それ自身で完全であり、自分が無(ゼロ)になった時無礙自在に生命自身を発現する。個我は分離の中に生存するものであって、自分を他の者と別個の存在と見る。しかしそれは幻想にすぎない。なぜならば『唯一』の大生命があるだけであってその中には何らの分離・断絶もないのである。かくして、息子よ、分離・断絶とは心の幻想であることが分かる。

君はもはや今後は、種々雑多な美徳の崇拝や罪の恐れによって心を動かされることはない。また、悟りを妨げる倫理という狭い道を辿るにも及ばない。ここにいる僧院長はこれまである型に自分を填めてきたために恐れを持っている。恐れを無くするには自分の実相が『今』完全であることを知らねばならぬ。そして自分の様々な虚栄や嫉妬、羨望や願望、希望、悔恨や恐怖をよく理解しなければならない。

こういったものはすべて君が時間〔過去・現在・未来〕という迷妄から解き放たれ悟りを求めたとき消えてなくなる。心がニセモノで一杯であれば、それがニセモノであることを見定めることによって空(から)にしなければならぬ。すると心からはニセモノがなくなり、常在の生命が、常に拡大してやまぬ意識、必竟〔つまるところ〕するに実在〔神・神我〕で心を満たす。一方実在そのものの外にあるものは、英知と愛と理解とを以てその正体、原因などを見分けるようになる。」

師はなおも私を見ながら語り続けられる。「唯一無限の生命は愛と英知との中において自分自身を現す。君が偏狭(せまい)、頑迷(こりかたまった)な信仰によってその営みを限ったときだけ、大生命の、今、此処、君の生活・生命(ライフ)におけるその本来の無礙・自在の働きを君自身が妨げているのである。

人間を分離という呪いより解放し、大生命自身の至高の本源より、太陽界(*1)の大天使達を通じて流れ来て、人間自らが造り出した惨苦より人間を解放する特殊の生命(*2)が存在することを、人間(*3)を通して明らかにする手伝いをすることが、息子よ、君の仕事となろう。この生命は英智と愛、智慧と慈悲によって満たされており、人間-父なる神が聖化して地上に送った神の子。聖なる『人間』-を真に理解する新時代を導入する先触れとなる。」この法話で師は今日の訓話を終えられた。

私たちは起ち上がって、私たちの為に用意された大きな部屋に入り、四名一緒に坐って食事をすることにした。まず僧院長が口火を切った。「師よ、あなたが私にお言い付けになることは何でも喜んで致します。」それに応えて師はいう。「神が君の手にゆだねた人々に真理を教えることだ。そうすれば君はこの国を無智と奴隷と貧乏の中に繋ぎ続けてきた迷信をこの国より取り除く最初の功労者となろう。」

すると僧院長は起ち上がり師の座っておられる所へ行き、「私の前に置かれたこの仕事が私にできるよう祝福をして下さい。」とお願いした。何年かの後、私はオク谿谷の僧院がチベット全国での最も教化の高い僧院となり、ガンデンにある教学の大中心でさえ肩を並べることができない、ということを聞いた。オクの大僧院長の話を聞き、彼の演ずる色々な不思議な業を見に遠近よりラマ僧が蝟集(いしゅう)するという。

さて、その日は残りの時間をラマ僧たちの弓術練習の見学に費やした。年に一度射弓の競争に国内の全僧院から撰出されたチームがラッサに集まる。これは大きな行事で、オクのラマ僧たちもそれに備えて練習をしている。彼らが的を射当てる正確さは大したものであった。この場合の大事なことは推測である。大きな標的が高い所に掲げられると、射手はジッとそれを見詰めてから、標的が見えなくなるまで後ろに下がる。

それから推測によって矢を射るのであるが的を外れることは滅多にない。これらのチームが毎日この練習をして最優秀のチームを撰び出す。ここには百人以上の射手がいて点数を表にして現すので、ラサでのきたるべき競技には文字通り最優秀の者だけが参加する。私は子供のころ、父の所有地で自分の弓矢を使ってよく兎を射ったものである。

もう長い間弓の練習をしたことはないが、しきりに腕試しをしてみたくなったので、私にも試さして貰えないかと頼んでみた。ラマ僧一同は歓迎してくれた。見える的では事実わたしは非常によい成績をあげたが、視界外の標的では多くの的外れを出した。しかしこの推測の練習を十分に積めば誰でも熟達するはずである。とにも角にも私がチームの一員に加えられたので大いに座興が湧いた。

処が僥倖(ぎょうこう)かどうか知らないが、その日の午後は私のチームが勝ち、おまけに私は平均以上の成績を上げたので、いささか英雄になってしまった。僧院長も喜んでくれた。僧院長は実は愉快な人物で、吾々が交わした話のやりとりを聞くことを許されて感謝していたのである。次の二日間は種々雑多な観念や信じ込んできたものを心の中から掃除し出すために、私は二日間独居させられた。

その結果、私の心の中にはただ事実(複数)のみが残り、事実そのものではなく、事実に対する信仰という観念的なものなどひとつもなくなった。師はそれ程徹底的に私の心を掃除してくれられたのである。私の心は今や第一の試験を受ける準備ができたのである。私は一枚の紙を与えられた。それには非常に意味の深い幾つかの言葉が師によって書かれていた。私の為(す)ることはその言葉を読み、それについて話をすることであった。

読み始めるや否や私は電流がサッと身内を貫き流れるような感じがした。一瞬わたしの心は空白となった。その後わたしは今までに体験したことのないある信念を感じた。英智の本源に自分が繋がった感じがした。私は、別人のように、自分自身が話しているのを聞き、言葉が次々と出るに従ってそれに聞き入り、考察するのであった。あたかも私なる人物が二つに分かれ、一方は愛と英知と力の本源に繋がり、他方は同時にそれを感じそれに学んでいるかのようであった。

私にとってそれは新しい、全く不思議な体験〔これが意識を伴った高度の神懸かり〕であった。師は非常に喜んで下さった。「そのうち君はもっと上手にやれるようになるだろう。次第に上達して遂に大いなる霊的存在者〔単数〕が神懸(オーバー・シャドー)かりできるようになり、その時には君の周りには霊的光が見えるようになろう。それが完成した時、君は数ヶ月後に元の世界に戻るのだ。

君を知っている人々にとって君は前と同じ姿・形ではあるが、どこか説明のできないある違った処があるであろう。君が世の中に出て人々の間で働いている間もなお君の内なる器〔複数〕〔精妙なる不可視の霊的体や中枢〕の形成が起き、益々多くの霊的力を用い得るようになるであろう。世間の人々の中にいることがこの仕事を立派に成しとげうる最良の行場(ぎょうば)なのだよ。」

それ以来というもの私は一人ではなく、ある霊的存在が私と偕(とも)にあり、それがいかなる方であるかが私には分かるのであった。アレグザンドリアの聖アントニーは色々の霊媒を通じて私が幾度も語った方である。しかしどの霊媒もツァン・タパには及ばなかった。これらの霊的存在者は話ができるだけでなく、自分の国の言葉、例えばドイツ語、フランス語、イタリア語、中国語、ヒンドスタン語、英語、チベット語などを完全に話せるのであった。

どんな霊魂でも、その国籍いかんによらず、(その話す国語も、国籍の変わる都度、大した躊躇(ためらい)もなしに、次から次へと変わる)使用のできる一種の機構(メカニズム)〔霊媒〕がここに存在していたのである。私はオク谷滞在中のあらゆる時間を楽しんだ。私たちはよく働き、よく笑った。私の進歩は早かった。僧院長の方は生命と宗教に関する新しい展望の調整に手間取り、始めの中は巧くはいかなかった。

もっとも、うまくいっておれば、ちょうど教会の首長(かしら)が、民衆を恐怖の中につなぎ続ける罪や地獄や悪魔の力についての説教をぶち壊そうとする僧正などを追放するように、彼もまたラッサの高僧たちによって追放されたはずである。彼らは、民衆が恐怖の擒(とりこ)になっている限り、民衆をうまく操縦し、誑(たら)し込むことができるのである。

なぜなら教会は『罪』の上に繁栄したからである。しかし恐怖の原因が取り除かれてしまえばもはや操縦も誑し込みもなくなるのである。世界中で私は仕事をしてきたが、狂言からくる恐怖で満たされている患者に私はたびたび出会っている。そういった患者には、わたしはいつも少し質問するような調子で、「神のご性質は無限でしょう?」と聞いてみる。

「そりゃもう神さまのご性質は無限ですとも!」(これが最初の足がかりである)「それでは、神さまの外側に何かが存在するはずはない訳ですね。さもなければ神さまは無限というわけにはいかないでしょう。」「全くおっしゃる通りです。」と、たいてい答えはきまっている。「無限であるためには神さまはあらゆる処にいらっしゃらなければなりませんね。さもないと神さまは無限という訳にいきませんからね。」「その通りです。」

「それでは神さま以外には何にもないですね。」「そうです。」「成る程。そうならば神さまは悪魔であり、地獄も神さまの中にあるに違いないですね。ところが神さまだけが存在するのであれば、悪魔は存在し得ない。だから、本来存在しない悪魔を人間は勝手に造り上げてしまっているのです。なぜなら神さまはその性質上無限であるから神と悪魔とが一緒に存在することはできないからです。

それは数字のようなもので、誤りは気がついた時には消えてしまう。ちょうどそのように悪魔もその本来の無に気づいた時には消え去ってしまっているのですよ。」これが衝撃(ショック)第一号だが治りはおそい!「しかし聖書の中では地獄と悪魔とがあるといっています」。決まってそう答える。私もまたきまって答える。「そう、その通りです。しかしイエスはこう仰いましたね。『汝ら聖書を読みて久遠の生命を見い出したりと思う。されど汝ら誤れり』とね。

それからこうもいっておられます。『悪に抗する勿れ』と。悪には本来力はない、そのない力を悪に与えないことです。悪魔とは自我のことで、地獄とはこの自我の造り出す混乱のことなのです。あなたの持っているのは心の中で造りあげた一コの片々(へんぺん)たる信条や観念にすぎません。しかしその信条の擒(とりこ)になっているためにそれについて考え抜いた上でそれを放下するのを恐れているのです。

その片々たる信条の正体を知るまではそのニセモノたる所以(ゆえん)は分からずに終(しま)うのです。」「それじゃイエスのみ言葉はどうなんです?」と患者は聞く。「イエスは真理については何ひとつ言葉を書き記しませんでした。書き記せるはずのないことがお分かりだったのです。イエスはポンティウス・ピラト〔自分の意に叛いてイエスに死を宣告した〕に聞きました。『真理とは何か』。しかし彼は答えることはできなかった。

イエスは何一つとして言葉を書き残さなかった。言葉で真理が啓示されるものではない、言葉は真理についてただある考えを与えるにすぎないのであって、そんなものは断じて真理ではない、ことをイエスはご存じだったのです。聖書を書いたのは人間です。イエスが十字架につけられたずっと後新約聖書を書いたのも人間です。

しかしその後それは人間によって十二回も変更されました。あなたは言葉は真理でもないのにそれを真理と受け取る。真理はいかなる本の中にも見出せるものではない。言葉の正体を知って始めて言葉が真理ではないことを悟るのです。」「しかし、イエスは、『サタンよ、吾が後(しりえ)に退(さ)がれ』と一喝されました。」「イエスが荒野で発見したものを私もまた発見した時、私もそういった。

自分の心の中にあるものの正体が全部分かった時私は我(が)の正体が分かったのです。自我こそは実在〔神・神我〕を隠す悪魔だったのです。我(が)はいつも前に面を出している。それが我(が)の行き方です。しかし本来は実存しないのであって、それが存在するのはただわたしが自分の実在〔神我〕に無智なためである。

この自我こそが真実なるもの(神・神我)の表現を妨げる悪魔であって、わたしも『サタンよ、吾が後(しりえ)に退がれ。汝は詐欺師なり。汝神の子としての吾が出生の権利を吾より欺し取らんとする者なり』といったのです。神のみが唯一の存在者であり、神の他に存在するもののないことを知った時、私は自分が血や、肉の意志や人の意志より生まれた者ではなく、久遠常在の神より生まれ出た神の子であることを知ったのです。

私は一切の繋縛(けばく)より脱したのです。その時、父なる神は神ご自信のみ業(わざ)を成就し給うたのです。神は実存するがゆえに私もまた実存することを私は知った。しかし神の何たるかは分からないが、吾々は一体であり分離することは決してあり得ない。我(が)とは分離を信ずることなのです。しかし分離は一コの迷妄(まよい)である。これが悪魔であり、地獄であり、あるいは我の造り成す混乱である。

なぜなら我は分離のみを知り、自我の利得のみを求めるからです。あなたが後生大事に持っているのは他の者から受け取って心の中に蔵(しま)っているある考え方観念に過ぎない。あなたは心の幻想であるある観念・思想を崇拝しているのだ。それは神ではない。神は観念や思想でもなければ肖像でもない。妄想でもなければ信心でもない。

あなたは種々様々の恐怖や妄想を持った自分の自我を知らないために人真似をしているのです。あなたはニセモノを知らないために本物を知らないのだ。そのために盲目(めくら)が盲目を導き、もろともに溝の中に落ち込んでしまうという愚(ぐ)を犯している。さて、もしあなたがニセモノを見せつけられたならば、その後は、他人の力を借りずとも独力で本物を見つけ出すはずだ。

あなたに何が真理であるかをいい聞かしうる者は一人だっていない。しかし何がニセモノかを知るならば、その時始めてあなただけが真理を直接体験しうるのです。他人のいうことを受け容れて自分自身で考えることをしなければ、あなたは真理を自分自身で直接体験することはできない。真理とは何かなどと云々(うんぬん)する者は偽(にせ)予言者である。

しかしあなたはまだそのことを知らない。それはあなたが自分の信仰なるものに捉われているからです。あなたは自分の心の中を探り、その中にあるものの正体を調べさえすればよい。そうすれば心の中にあるものが真理ではなく、真理についてのタダの考えや観念・思想に過ぎないことが分かるはずです。『I AM』〔神・神我〕こそが真理なのです。人はそれ以上のものではありえないのです。

なぜならば、生命と一者(神)の他に実存するものはなく、その中には何らの分離もないからです。ゆえに妄想(まよい)は自分の心の中にあるのであって、それは自我の造り出した幻想であり、造り出されたものは真理ではない。造られないもののみが真理である。あなたは『それ』〔神・真理〕が何であるかを知らない。しかし心の中からニセモノ全部を除き去ってしまえば『IT IS』〔それ(神)は今・此処に実存す。〕が分かるでしょう。

だからいわゆる道徳なるものは愚の骨頂であって、道徳的人物に成ろうと努めるのは、自分の実相を蔽い隠すことなのです。自分の実相でないものについて既成のある観念・思想を持つだけでは道徳ではない。道徳とは自分の実相を、万遍なく深く見究めて、知り尽くすことなのです。いわゆる道徳は妄想であり束縛である。自分の実相を知らなければ、有徳になろうと努力したからといって有徳な人になるものではない。

美徳は自分の実相を知ることの中においてのみ見出しうるのです。美徳とは解脱であり、自己の実相を理解し尽くすことによる解放なのです。美徳とは実在〔神・神我〕の顕現を妨げているものを見抜くことなのです。親切、情愛、慈悲、寛大、赦しなどすべて実在の真の現れである。これが美徳です。これこそがわれわれの種々雑多な問題を解決しうる唯一の道なのです。

しかしあなたのいわゆる道徳では、どんな問題の解決もできない。してみれば有徳に『成ろうとする』ことの中には美徳はない。なぜならば美徳は今すでに完全円満である実在〔神我〕の中にのみ実存するからです。美徳は時間にかかわるものではない。自分の実相が分からなければ美徳があるわけはないのです。」こういう風にして私は話す機会のあるごとにいって聞かせた。

すると患者たちはきまって、ますます指導を受けにくるようになった。つまり、私の話は大きな配当を生み出した訳である。というのは、私の話が、これまで真理とは反対の生き方をしてきたために挫折を招くだけだった『成ろう』と努める緊張より患者たちを解放したからである。

訳者註:
(*1) 太陽は、太陽系天体を統(す)べる神々の住み給う神界でもある。
(*2) 大生命のエネルギーは無限力故、そのまま人類に注入したのでは人体等が破壊される故、神の英智は地球の周囲に、空気、ヴァン、アレン帯其他各種の物理的変圧(及び変化)装置を設けると共に、各階級の神々(高級霊・西洋流に言えば天使)の特殊の働きを経て、人類の人体等に適合するようにそのエネルギーの霊圧を下げ(変圧)してから、伝達する。併し又、人は身・口・意の浄化によって、より高き霊圧に堪えうるようになり、かくして受けた神のエネルギーによって、彼の浄化はいよいよ進み、内在する霊(神我)力はより強大となり、その意識はますます拡大・深化して行く。(尚又、人『体』を構成している七層の『体』(くわしくは、拙訳書『ヒマラヤ聖者の生活探究』(全五巻)の注解参照)及び或る程度までは幽体、霊体、精神体等内のいわゆるチャクラ(霊的中枢)も又この変圧装置の役割をも果たす。)
(*3) ここでは著者を暗示する。著者は事実後に至って、このような「特殊の生命」の媒体ともなったのである。