実家へ行くと掛け軸など数点飾られている
興味津々で2点ほど調べてみた
1点目
吾道一以貫之(わがどういつをもってこれをつらぬく)。 もとは孔子の書いた論語の言葉です。 孔子が弟子の曽子に「わたしの(説く)道は、一つのもので貫かれているのだ」と教えます。 曽子は「はい。わかります」と答えました。 孔子が部屋を出て行くと、他の門人たちが曽子にたずねます「どういう意味ですか?」と。 「先生が説く道は、忠恕(ちゅうじょ)にほかならないのだ」と曽子は皆に教えました。 ※忠恕→まごころを尽くす、思いやる心。誠心誠意。 吾道一以貫之(わがどういつをもってこれをつらぬく)。 「我が道の一」とは単純に、ただ一つの事だけに打ち込む、という意味ではありません。 目の前の一つ一つのこと全てを、誠心誠意、大切に、全力で生きる、それが「一」を貫くということなのです。 仕事をするとき 家事をするとき 食事のとき そうじをするとき 洗濯をするとき 遊ぶとき 休むとき 眠るとき あっちへふらふら、こっちへふらふら、よそ見運転は止めましょう。 否、あっちへふらふら、こっちへふらふらも、誠心誠意全力で行えば、正しい道に変わります。 「一」をもってこれを貫きましょう。 われわれは常に人生という大きな道を進んでいます。
しかし、その道は一本の大道だけで成立しているわけではありません。仕事をする、料理する、ごはんを食べる、そうじする、遊ぶ、一つ一つの小さな道が集まって、大きな大きな自分の道になっているのです。 それに気づかねばなりません。 自分の前に現れる一つ一つの小道、その一つ一つの道を、一(誠心誠意)をもって貫いて、楽しみながら大切に、全力で進んでいきましょう。 道を楽しむと書いて「道楽」です。 どうせ進むなら、楽しく進みましょう。
この掛けものは、父が机の前にあったもの
私がこの歳になると書いてある意味がよくわかる
人によって捉え方は違うと思うが
私は、自分がこれだというものを貫いていきながら、それが一つのものにこだわらず
いろんなことを丁寧にこなしていくと気づくものがある
それぞれ、違うものを体験しているのに
そこには、相通ずるものがある
まさに忠恕
私は、いろんなことをしながら、この忠恕を見出だそうとしているように思う
2点目
百忍んで為すべきことを貫く
変へんに処しょしては、まさに百忍ひゃくにんを堅かたくして、以もって成なるを図はかるべし
衰退すいたいの兆きざしは隆盛りゅうせいの時に始まり、芽吹めぶきは葉が枯れて落ちる時に始まっている。 だから君子たる者は、繁栄はんえいしている時に、後日の異変いへんに備そなえ、 困難こんなんに遭遇そうぐうしたときは、ひたすら耐たえ忍しのんで初志しょしを貫つらぬかねばならない。 「変へん」とは、言わば人生の踏ん張りどころである。 そこで必要になるのが「百忍ひゃくにん」だと言っている。 局面きょくめんを打開だかいして目的を達成するために必要なのは、粘ねばって粘って粘り抜くこと。 「百忍ひゃくにん」ということばには、そういう粘り強さがなければ、 新しい展望を開くことはできないという意味が込められている。 「百回でも耐え忍ぶ強さを持つ」 初志を貫くためには、何回でも耐え忍ぶ強さは必須ひっすである。
私もこの意味の文章を読んで感じること
私もこの50年生きてきて
堪え忍ぶ大切さを学んだ
どんな仕打ちや言葉の暴力を受けたとしても
平常心で耐えうる胆力を身に付け
精神的に強くなれたし、人の痛みもわかるようになった
腹を立てたり、ひがんだりと自分に負けなかった
常に肯定に向かっていた
自分に負けて逃げることはしたくなかった
仏教の六波羅蜜では、禅定という
心を静め己に勝つ
感情をあらわにするということは己に負けることを意味する
その禅を引きついたのは曹洞宗と臨済宗の禅宗
徳川家康は
鳴かぬなら鳴くまで待とうほととぎすと詠んだ
徳川家康もこの兵法を読み込んだに違いない
仏教の六波羅蜜の中で、もう一つ忍辱という言葉かある
私も堪え忍んだ先の喜びを味わいながら楽しくいきたいと思う

