黒狐が出現したとニュースで観た。(去年の今頃はツキノワグマがやたら出現していた。)

そして、自分を狐と言った昔の社長を思い出す。

その社長は夢にも出てきた。

一緒に一坪くらいの定食屋にいる。

なぜか調理場と客席は仕切られてる。

店主はおばさんに料理出すのに出入口からわざわざ回る(調理場と客席は木板みたいのでさえぎられてるから)

 

社長と自分が枝分かれしたのは宗教的理由からなんです

 

自分はそう言った(思った)

そしてその社長と店主を観て、自分が起業することを思う。

 

(金曜)

しいたけのまぜご飯との味噌煮を食う。

なぜか毒キノコのニュースを目にする。

鯖の味噌煮は脳味噌にもいいと東大生が言ってるらしい。

(土曜)

新宿中央公園で聖教新聞を読む。

石ころの記事が目につく。

日本橋は日本産の花崗岩づくり。

(日曜)

母親が築地に行くというので、調べる。

江戸百科事典を見ると、劇場があったらしい。

関東大震災で帰国した知識人が西洋式劇場を造る。

西洋文学を素材にした演劇、プロレタリア演劇など。

東京大空襲で焼失。

現在はない。

(月曜)

地球を人が壊してると聞き、エコロジーな生活について調べてみる。

江戸時代の蝋燭は漆でできている。

戦後間もない電話通信は、10km圏内でも1時間以上かかった。

現代の中学生の鬱病罹患率は2割を超える。 等々

 

 

「おれ、真如苑の在家僧やってんのよ」

仕事中だったが、自分を心配してか宗教の話をしてきた。

自分を狐と言ったその社長はロードオブザリングに出てくるドビーみたいな顔をしてる。

2015年の2,3月頃だった。

 

真如苑?

 

自分はどこかで見たであろうその新興宗教は知っていたが、詳しいことは知らない。

単純な話勧誘をしてきたようだ。

自分も創価学会員なので勧誘する側の気持ちもわかった。

その社長の話だけでは真如苑がどういう宗教かはわからず、ネットで調べてみることにした。

 

真如苑は涅槃経をルーツにしている。

 

涅槃経なら多少わかった。

釈迦が晩年(72歳以降)に説いた教えだ。

ただ、涅槃経の寺を埼玉南部や都心部周辺で見たことはなかった

そこで自分の宗教(創価学会)と涅槃経の接点を探してみることにした。

すると法華経の観普賢菩薩行法経に“生死即涅槃”ということばを見つけた。(創価学会は日蓮仏教がルーツで、日蓮仏教は法華経がルーツ)

 

生死即涅槃、、

 

生きるも死ぬもそのまま涅槃(煩悩のなくなった救われた境地)と読んでみたが、実感としてはわからなかった

そこで真如苑(涅槃経)を調べるのでなく、社長という個人について考えることにした。

 

「世の中金だよ、金。」

社長はよく悪態をつくようにそう言った。

仕事をしてるのも金のためだと。

当然だと思った。

金は生きるのに必要だ。

と同時に金だけが目的で仕事が続けられるか疑問だった。

「おれ、人間関係だいっきらい。」

よく取引先に営業トークを振り撒いてる社長を見て、社長は人当たりいいですねとコメントすると、そう本音を曝け出した。

 

金が第一、人間関係が嫌い

 

これが社長だった。

そのくせ、真如苑の話をするときはいきいきとしていた。

まるでマシンガンを放つかのように雄弁にもなった。

自分は思った。

この人は現実社会での不満を真如苑的世界の中で昇華してるのではないか。

「真如苑の人達はいい人ばっかだよ。」

社長はそうも言った。

しかし、取引先の壮年に対しては相手がいないところで

「あのじじい、口先だけだからな、ヘタレのクセに」

と罵倒していた。

そのような罵倒は大半の人物がターゲットにされていた。

そこで自分が思うのは、この社長は他人を信じられない→真如苑(的世界に信用を求める)→真如苑の人はいい人→真如苑(涅槃経的世界)は一般社会よりも信用できる、と思考回路がなっているのでは、と。

では、一般社会(例えば取引先)のなにが信用出来なくて、真如苑のなにが信用できるのか?

 

おそらく親切心があるかないかだと思う。

社長のもう1つの特徴として、部下に気を遣うというのがあった。

社長は自分の口からも

「俺は部下とか立場の弱い人には親切にしたいんだ。」

と言っていた。

確かに、一般社会は概ね立場の弱い人には親切でない。

社長自身そういう社会の風潮にあらがうようにして、立場の弱い人に優しくしようと努めてきたから、心の内部で不満を起こし、人間嫌いになり、金だけしか信用できないようになり、真如苑の中に親切を求めにいった。

ではこの真如苑の親切心とはなにか?

創価学会の人にも親切な人はいるし、学生時代の仲間内でも市民クラブでも親切な世界はあると思う。

ただ、自分も宗教団体に属してるからわかるが、宗教の世界に属してる人と会社や学生時代の友人とはが違った。

これは言葉では表現しづらいが、傷ついた人に積極的に関わっていこうという文化のようなものがあり、競争や感情を剥き出しにすることも少ない(勿論宗教の世界にも汚さはある)

社長が宗教の世界、つまり真如苑に自身の社会との亀裂の埋め合わせを求めたのは必然だったのかもしれない。

では真如苑(涅槃経)と創価学会(法華経)の親切心の違いはなんなのか?

それは涅槃の解釈の違いじゃないか予想してみた。

 

涅槃経(真如苑)で説く涅槃は煩悩を滅尽して(心も体もなくなって)、つまり死ぬことによって苦しみから脱することを言うらしい。

法華経(創価学会)で説く涅槃は、生死即涅槃、つまり生きてることも死ぬこともそのまま涅槃(煩悩のなくなり苦しみから脱すること)を言うらしい。

 

死ななきゃ苦しみから脱せない。

生きてても死んでも苦しみから脱せる。

 

どちらも引っ掛かるところがあった。

 

真如苑(涅槃経)では在家出家の制度を取る。

創価学会では(法華経)では在家のまま仏道修行をする。

 

出家をして社会から切り離された異世界で涅槃を目指す。

出家をせず社会の中で涅槃を目指す。

 

異世界で社長がマシンガントークをしていたように鬱憤をはらす気持ちもわかる

結局、現実社会の中で自己実現(涅槃)することになるという現実もわかる。

 

人には異世界と現実がある。

睡眠と起きてる時間みたいなものだ

 

睡眠だけでも生きていけないし、現実だけでもどこかで亀裂が走る

 

社長と真如苑(涅槃経)的在家出家について話してみたくなった

ルーツが涅槃経だから在家でも出家(仮想の死)を取るのか?

涅槃経(真如苑)は現実社会の中でどんな形をして現れてるのか?(例えば創価学会の公明党のような)

そもそも社長は涅槃経(真如苑)の思想を求めて入信したのか?真如苑の人が親切だから入信したのか?

 

社長はその真如苑的世界(涅槃的世界)の中でやってるマシンガントークを取引先の壮年にしてみればいいのになと思った。

ただ、宗教の話題は世間話になりにくいな、とも思い、宗教と社会の共通項はなにか?と新たに疑問が湧いた。