夏らしくない弱弱しいどんよりした空気があったり、愛知で起きた強風があったりと不安定な気候のこの頃。

熱帯低気圧も行き場を失って台風になったり、ただ雨を降らせたり。

日本の人びと(特に農家)は梅雨場の雨不足ゆえか雨を求めていたが、内心暑い夏らしい夏を求めてる人も多そう。

これ程雨が降り続けるのは数十年ぶりであり、年配の人の中にはなつかしいその年の夏を思い出してる人もいるかも。

スペインではテロの影響で混乱などあるが、少し前に拳大のヒョウなどが降ったイタリアなど南欧も戦いが続いている。

南欧人もムスリム系もトマト祭りなどでお互いを赤く染めれば良いと思うが、なかなかそういかないのが人間社会だ。

互いの歴史的な傷が異常気象のように不安定になり、人々がなにを信じたらいいかわからないのだ。

その傷でアメリカのように世界で偉そうにしないと、アメリカの白人労働者階級のように目に見えにくいいじめを受け人間不信に陥る。

そのような人々を100×4のアンカーを務めた藤光選手のように母思いの人びとがサポートし、夏に実らせる夏みかんのように忍耐強く自分の番を待ってる人々もいるように感じる。

それはあたかもほんとにあった怖い話に出てくる霊のように異形をなし、人々に負の感情を与えるものかもしれない。

人びとがそんな夏を楽しめるのも伊豆の常夏のビーチを楽しむ快活さがあってこそだ。

晴耕雨読ではないが、夏休み天気悪ければ過去に思いを馳せ、趣味の断片を磨いていけば、バネになるかもしれない。

人びとが観音や伊勢神宮、いや神なる体験に自他を観て、それを語り形造るのを拒否できないように、アメリカヤンキーが荒野の雑草を開拓し土地を求めたくなるのも夏のように思える。

 

ここ2カ月で熊谷で不審火が続いたらしい。

どうやら原因は公地を勝手に使った土地トラブルらしい。

中国人の男性が市に無許可で土地を農地にしてしまったらしいが、それをよからぬと思った人の犯行ではと言われている。

国籍や民族の違いから起こる価値観の衝突は、この夏の時折起こる快晴とどんよりした雨のぶつかり合いのようだ。

企業などの組織はグローバル化に対応しようと急ぎ、地域などの一般人はそこに戸惑いを感じてるというのがおおまかな様子のようだ。

同じ日本人ですら他人に距離を置こうとする風潮で、人々はツイッターなどの炎上で己だけを満たそうとするのは、このような放火と似た傾向にあるように思えてくる。

新自由主義とグローバル化の影響で誰彼も多かれ少なかれ悪くならなければ生きていけない気持ちはわかるが、自分を尊敬するように他人を尊敬し、様々なもの(文化ともいえるが)を活かしていくところに活路があるように思える。

日本人なら日本人の顔、中国人なら中国人の顔があるのは当然で、その上で、友人ならば、幼少期の子供同士のような純粋さがあるならば、このようなトラブルも起きないだろう。

ましてや愛する家内などでは。

そこまで現実にするのは困難であり、人によって価値観の限界もあると思うが、口喧嘩をするようにこういうことを話し合うのも、たまにはいいように思えてくる。