今朝は7時20分に起床。
昨晩の夜更かしたたって疲れてる。
昨晩は眠れず4時頃まで起きてた。
ツィッターもある程度の時間まできたら切り上げるようにしなくては。
体調不良、事故等さまざまな厄災は睡眠不足に由来することが多々ある。
朝スッキリ起きれないだけで、その日のスタートを嫌な気分で切らなきゃいけない。
そういうことはなるべく避けたいもの。
きょうはサイコセラピの日だった。
なにを話したらいいのか近づくにつれ足取り重くなる。
サイコセラピは守られた空間の治療の場なので、自分はだいたい気分の話から始める。
そこから、天気や地震、政治(世間話)になり、ツィッターからなぜか仏教の話になり、そこから創価学会がなぜ日蓮正宗と分離したのかという流れに。
先生はここ一年で印象に残った夢について聞いてくる。
自分は近所のサッカー場で友達とフルーツを食べ、そこには大曼荼羅があった夢を答えた。
先生が以前のサイコセラピでその夢が象徴的だと言ったからだ。
場所は近所のサッカー場。
サッカー少年団の時によく活用しており、林に囲まれているのと支所が側にある。
家から自転車で5分くらいで産業道路と外環道が交差した所にある。
そこで小中時代の友人であるA君とIといる。
A君は部活は違ったが大学以降も交流があり、Iは陸上部で大学以降も付き合いがあったが今は交流はない。
2人となにやらトマト(フルーツ?)のようなものを食べている。
とにかく甘い感じだ。
美味しい。
自分は2人にサッカー選手のロベルトバッジョ(イタリア人で創価学会インターナショナルのメンバー)について話してる。
そこにどてかい、家にあるようなのの何倍もあるような曼荼羅(仏壇)がある。
それはいい印象の夢だった。
曼荼羅に関してネガティブな印象の夢もある。
そこはどこかの仏間。
そこにはなぜかインディアン風な老婆がいる。
おどろおどろしく仏間に水をあげようとしてる。
僧侶のように追従的に仏壇に供養を捧げようとしてるようだ。
仏壇の脇では1人のインディアンの男が寝たきりになっている。
その尻先には幾つかの糞がある。
自分はこの夢におどろおどろしいものを感じた。
伝統を大切にしようとする姿も見てとれるが、伝統に縛られてるとも見てとれる。
先生は仏教用語の十界に反応していた。
人間の生命は十の境涯に分かれており、瞬間瞬間因縁によって変化している。
地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天、声聞、縁覚、菩薩、仏の内訳。
人それぞれの傾向の強い境涯はあるが、どんな人も仏にもなりうるし、地獄にもなりうる。
どんな成人君子にも畜生のような色欲や食欲はあるし、畜生のような人でも大切な人には菩薩のようになる。
先生は地獄のような話を幼少期にしたら罰に縛られるんじゃないかと心配していた。
確かに自分は地獄とまではいかなくても虫を殺したり、ゴミをポイ捨てしたりしたら罰があると思いこんでいた。
しかし、それらは些末なこと。
中学生になり、自我が芽生えてきてからそのような仏教教育したらいいのでは、と言っていた。
疑問に思うことができるようなるからだ。
確かにそう思う。
仏教の教義的なこと戒律的なことに縛られて、人間らしさを失ってしまっては本末転倒だ。
仏教はあくまでもその人自身のためにあるのだと思う。