今朝は11時起床。
今日は最近にしても寝坊。
台風だけど、気候が関係してるのだろうか?
昨日一昨日は読書がはかどったからその疲れだろうか?
一昨日なんかは一日で一冊の本を読んでしまった。
そんなに暇なのかよ、と突っ込まれそうだが確かに暇で200ページ以上を平らげてしまった。
これは病後の自分にしては珍しくことで、読書に熱中することはほとんどなかった。
だから、病前は宝の山に見えた本屋や図書館が殺風景な場所にしか見えなくなり、単なる暇つぶしの場所になっていたのである。
しかし、一昨日、ちょっと視点を変えてみると読書がはかどることとなった。
何かの本を検索しようとするのでなく、適当に出歩いて目に止まった本を読んでみる、である。
ジャケ買いならぬ、背表紙読みである。
自分の引っかかる言葉の入ってるタイトルの本を読んでみる。
作者やジャンルなどの先入観に捉われないのでシンプルに活字を楽しめる。
文体の感覚が合うものは読み進められるのでそのまま腰を据えて読んでみる。
親父が昔、本は100ページ読んでみると面白いかどうか判断できる、と言っていたが、100ページまで読めてたらハマってる証拠。
一昨日読んだ『ホームレス失格』もあっという間に100ページ読んだ。
ホームレスという切実に貧困に悩んでる様子と失格という、それすらも失格なのかという衝撃が織り混ざって生きることの切実さが伝わってくるものだった。
小説ではなく、自伝というかノンフィクションドキュメンタリーなので、自分の生活に置き換えて読めると思う。
例えば、筆者は戦争物の小説を書いていたのだが、それが書けなくなると住んでいた公団住宅を追い出され妻と子と別れて一変、路上生活者になるという経済的リアリティを感じられる。
それは例えば仕事をしていない自分にとって他人事には思えないし、ホームレス作家という作品を当てて、下高井戸に居を構える筆者を読んでいて、作家というより貧乏生活を抜け出すのに一発当てた人というように読めるのも面白い。
筆者が自分は父親失格だが書くことで子供に影響を与えらればというのも切実さを感じた。
死んだ後を考えるのが父親らしいと同時に作家らしいと思った。
死んだ後といえば、自分は葬式にこそ友人に集まってほしいなとよく思う。
ラジオで、あなたが生まれた時は皆笑ってた、あなたが死んだ時は皆が泣くような人になってなさい、とあるがそれが理想なのだろう。
1人でも多くという気持ちが大切なのだろう。
因みに葬式では僧侶に祈ってもらわなきゃ、成仏できないとは説かれてない。
それは釈迦が言ったのでなく、商売気を出した僧侶が在家を客にするために言い始めたのだろう。
供養の経を読めるので僧侶に頼むというならわかるが、経が読めるなら在家であっても供養していいと思う。
なんにしろ金を払って赤の他人の僧侶に頼むか身近な親しい人に頼むのか、と言われれば後者のがしっくりくるというのが大半だと思う。