作家の小田実は旅行記の『なんでも見てやろう』を作ったが、豊かに生きるためにはなんだって創造してやろうが必要なのかもしれない。
その一つは季節感ある行動だと思う。
夏には夏の冬には冬の風物詩を味わう。
若い時には若い時の老境には老境の生き方がある。
その時その時のものを味わったほうが価値的だと思う。
空手を習ってた時のI先生は細く長く続けることが大事だと言っていた。
地下水脈のようにいつか湧き出ることを信じて。

結局この夏はプールに行かなかった。
クラゲが出てくるような時期になっても熱いだろうという目測は外れた。
夏の間溜まった疲れを癒すのに水辺はいいと思ったのだが。
春は近くの中学校沿いにある桜並木を眺めながら一服するのがリフレッシュだった。
泳ぐのは疲れるのでただ浮かんでいたかった。
実に様々なものが聴こえてくる。
なぜか阿闍世王のことが気になる。
阿闍世王は釈迦の時代、提婆達多にそそのかせれ父親を殺し王座についた人。
仏教も迫害したことからも暴君としてしられるがその後は改心して仏典集結に努めたらしい。
父を殺し母を手に入れたことからも東洋のエディプスコンプレックスならぬ阿闍世コンプレックスと言うらしい。(西洋と違うのは阿闍世は母も殺そうとしたらしい)
破仏法の代表者の一人だが、仏教ではこういった大罪者が仏教の功労者になるパターンが往々にしてある。
アショーカ大王もそうだし、提婆達多も最後は成仏したと言われる。
人間で罪を犯さない人はいないし、罪人を最後の審判で裁くというキリスト教の思想とそこが大きな違いかもしれない。
罪もまた力なりと言うとこか。


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