自分は江戸時代にいたら、どの階級の人間だったか妄想することが時々ある。
武士は会社に忠誠を誓う社畜ことサラリーマン、農家はそのまま農、工は職人全般、ものづくりに関わる人、商は商売人、なかでも物を直接売る現場にいる人、八百屋とかスーパーマーケットの店長とかコンビニ店員とか。
そう考えると自分はどこにも属してないように思える。
江戸時代は働かないことが憧れだったから明治維新の脱藩した革命家達もニートを望んでいた。だから現代のニートフリーター時代は日本人の望んだ形なのだ、とどこかの本で読んだがフリーターやニートだって楽なことばかりじゃない。
なによりもアイデンティティというか自分の拠り所が曖昧だ。
夏目漱石は人は宗教か自殺か薬に向かうと言っているが、ポジティブな意味で拠り所となる宗教は必要に感じる。

釈迦の仏教は聞いた人は誰でも縁できるという下種仏法らしい。
聞くと仏の種が自身の心種に植えらるから下種。
勿論、朝に日の光を当て、夕に水をあげる世話はし続ける必要はある。
その行為を釈迦は法華経の六難九易で表してる。
六難とは法華経を読むこと、一人のために説き聞かすことなど、末法(現代)では困難と思われる仏道修行。
九易とは藁を背負って大火に飛び込んでも藁が焼けないようにするなど、常識では不可能と思われること。
それら九つに比べれば六つは困難だという例え。
無理だと思えることを引き合いにしてるので、そのくらい末法(現代)では仏教の修行が困難なことを表してる。
ただ、困難だと言えば、衆望が離れていくだけなので釈迦は困難な歴劫修行(永く辛い修行)を説いた爾前経から聞かすだけで成仏の因を作れるという法華経にシフトしたのである。
法華経はその思想の深さから難解難入と謳われてるが、意味がわからなくても仏道に入れる言葉として南無妙法蓮華経を作り出した。
鎌倉の仏教僧日蓮は南無妙法蓮華経の意味がわからなくても成仏ができるという例えとして、赤子が母の乳を飲むようなものだと言っている。
個人的には南無妙法蓮華経に限らず、仏教用語全般がその人の智恵を引き出すのに役立つと思う。
よく書かれてる啓発本なんかも読んで、自分の感じてること経験したことを引き出し形作ってくれるから価値が出てくるように思える。
何も本を書かずとも普段の会話やSNSで他人のそういった部分を引き出せたらいいと思う。