今朝は6時に一旦起床。
二度寝して9時。
とてもここには書けないような破廉恥な夢を見た。
また観たいかと聞かれればまた観たい。
あとは久々にアクティブにサッカーなどしてる夢。
久々に夢の記憶ある。
観た夢にもよるが夢の記憶がある朝は頭がスッキリして動きやすい。
東南アジアかどこかのとある部族は朝、お互いの夢の話をするらしい。
それにより犯罪率は著しく低いらしい。
夢は物語を提供してくれるばかりか、薬のような効果があるのかもしれない。

人は誰でもスピリチュアルな世界に惹かれるのだろう。
もし東京のど真ん中にある神社がビルの開発か何かで破壊されたら、人々にどのような影響があるだろうか?
そこに週末、参拝に来ている老夫婦の楽しみを奪う。
祠の水を取り替えてる老婦人の日課を奪う。
子ども達のかくれんぼの場所を奪う。
猫のほっこり休息の場所を奪う。
金や数字に見えにくいだけでそれなりに影響がある。
自分は神様の祟りなんてものは起きないとは思うが、現実的に人々に影響がある。
カントは、懐疑主義は理性の休息所だ。そこに長らく止まるべきではないが、理性には必要なことだ、と言うようなことを言ってるがスピリチュアルなものも似てると思う。
このスピリチュアルなものー宗教的なものはのめり込み過ぎるべきではないが、人にとっての休息所のようなものになるのではないだろうか?
ゲーテも『若きウェルテルの悩み』の中で、私は宗教を尊敬する。宗教は疲れた人にとっての杖となりうるからだ、というようなことを言っている。
自分も統合失調症になってから日本神話に興味を持った。
それまでスサノオやアマテラスの姿など興味に入らなかったが、そこに自分のアイデンティティの欠片があるのではと思ったからである。
それをユングは全ての人に共通する元型的イメージー集合的無意識と呼んでいる。
癒しを求める人がこぞってパワースポットの神社に行くのも、ヒンドゥー教徒がガンジス川で身を清めるのも、この集合的無意識に連なりたいからなのではと思う。
夢診断などのサイコセラピで扱う夢にも太父と言われる老賢者、川や海や沼地などの水辺、曼荼羅などの信仰対象が出てくるのも深層心理ではそういうものが内にあるからだと思う。
自分自身はそういうものを大切にしながらも現実を大切にしたいと思ってる。
夢で何かお告げのようなことがあろうと、シャーマンのような特殊能力があろうと具体的に何かの役に立つわけではないだろうからだ。
気晴らしは音楽やビールでできるからだ。
なんにしろ、趣味や職業にでもしない限りのめり込むべきではない、と自分は思う。
何度も言うように音楽のような気晴らしにはなるが。