もしも、今、自分が病気にならなかったら。
よく思うことがある。
バリバリ働いてだろう、家族を持っていただろう。
でも、病気になってよかったと思う。
20代も後半のピークも差し掛かる昨年一昨年、自分は病気で地獄を見ていた。
文字通り地獄だ。
あんな思い二度としたくない。
人にも、特に大切な人にはしてほしくない。
そんな日々だった。
しかし、そんな日々でも、これ以上ない孤独の日々でも感動はあった。
切ないものへの共感、朧げなるものへの共苦。
病気じゃなかった時は知りようもなかったこと、知りたくても、知ろうとしたけど、感じることのできなかった小さな、ほんの小さなことを感じることができた。
人によっては全く価値がないという人もいると思う。
むしろ大半の人は見てみぬふりをする世界。
統合失調症の妄想的世界、自分は妄想ではなかったと思うがそれに近い酷い状況だった、の日々だった。
苦しくて仕方なかったけど、妙な感動があった。
ジャズやロックなどの音楽がスイスイ入ってきた。
酒もすすみ、かつての友人との日々も思いかいされた。
その友人の大半は、オンライン上のことではあるが、自分を見捨てることを躊躇なく行った。
ショックだった。
苦楽を共にしてない友人じゃなきゃわかる。
赤の他人なら、おかしな奴がいる程度で流すだろう。
しかし、青春の時を過ごした友人が少し調子を落とした友人を見捨てるだろうか?
自分は1人スマホ越しにショックを受けていた。
誰も頼れない。
自分は1人だ。
勿論、中には手をさしのべてくれようとした人もいる。
それはどちらかというと知り合い以上友人以下のような人達で、その人自身が優れた性格の持ち主だったからだ。
自分は決して誰にも甘えられないことを悟った。
しかし、それにしてもこれは酷い仕打ちじゃないか。
もし神様がいるなら(自分は仏教徒)なぜ、こんな仕打ちを自分に、と思う。
今でも、ウィスキーもジャズも“少なくとも”染みる。
しかし、かつてのような感動は今はない。