羊をめぐる冒険について書いてみる。

久々に読んでみた。何かまた再読してみたいと思い暇なきょうを活用した。
相変わらず平易で缶ビールみたいな文体は読み易く、最近では読む本読む本選んでしまう自分も簡単に進めることができた。
というのもこれには二つ理由があって

・一度読んでたので記憶を呼び起こしやすい
・村上作品の中で一番面白いと思う小説

だからである(ただ、自分は個人的には村上春樹は好きではない。最近の文学潮流からするとそれは古いものになってきてるよう感じられ、認められ得るのはジャズの知識とその感覚だけだろう。)
とは言っても手に取ったのは下で、後半部分から再読し始めた。それは好みのエピソードが後半部分に集約されてるのもあるが、たまたま手に取ったのが下で幾らか探しても上が見つからなかったからである。
そんなこんなで読んでいて気づいたことが一つあった。というより年齢的感性の変化からか以前は思わなかったが、今は思うというのか。
文体が平易と言ったが、その通りで書かれている文章の知識が浅く広い、つまり自分のような一般人的だと感じたのだ。それは優れた文章家が読者にわかりやすくするためにそう書いてるのでは?と以前は思っていた。
でも、今は違う。
自分で文章を書いてみるとわかる。人が文章を書く時、自分以上のものも自分未満のものも書けない。自分の能力はほぼそのままでるのだ。もし、アフリカマサイ族の生活様式について書こうと思ったら、それが未だに非文明的な生贄の儀式をしてるとか、歯ブラシに森で取ってきた木の枝を加工したものを使っているとか、中には数年に一度、都会に留学するような独立意識旺盛な若者が出現するなど、とそれに関する僅かな知識とそこから紡ぎ出される想像力を駆使して書く以外にない。アフリカマサイ族の本当の生態は先ず書けない。
車を所有はしてるが修理のできない素人には車の修理工並の知識はありようもない。
それじゃあ、自分が(自分達のような文章素人に)村上春樹のように書けるのか?と言われたら答えはNOだ。
なぜなら彼は車の修理工ではないかもしれないが、車好きないしかなり車を知ってる素人に違いないからだ。中高時代サッカー部でならした奴に大学から遊びで始めた奴がフットサルでも勝てる道理はないだろう。
話を元に戻すとこの本で自分が好きなエピソードは十二滝町の歴史のくだりだ。また、先生の屋敷の周りにある街路樹(名前は忘れた)の描写も印象に残ってる。ただそれは上巻の話。
なにはともあれ文章が上手かろうが下手かろうが書き続けることがなにより大変なんじゃないかと、この文章を書いてて思う次第でありました。