2005年7月
本格的に夏が始まる頃、母が退院した。
無菌室に移って2ヶ月。坑ガン治療でたたいても、たたいても良い白血球が増えず
熱と咳が続き肺の痛みも治まらず…長期戦を覚悟していた。
それが突然、ホント突然に良い白血球が増えて、念願の寛解へ。
奇跡ってあるんだと思った。
退院してすぐ母が尊敬している内科(外科?)の先生の講演会に行くため大阪へ。
車椅子を借りて大阪を父と母と3人で歩く。
こうしていると数日前まで母ガ坑がん治療を受けていたと思えなくなる。
ワタシ、悪い夢でも見てたのかな?
今この現実も、たまに夢ならいいのにと思う。
大阪に来たので、大阪の友達ともお茶した。
状況を説明している間、彼女は泣いていた。
泣けない私のために、泣いてくれてありがとう。
2005年8月
私の誕生日。
母がケーキを焼いてくれました。
黄桃とぶどうというちょっと不思議な組み合わせ。
でもそれが母らしさでもあったり。
ロスで青の着色料をゲットした時は、しばらく我が家には青いケーキが出た。
父がいて
母がいて…
珍しい光景ではないけど
もう二度とない光景。
母にお祝いしてもらった最後の誕生日。
もう少しちゃんと覚えておけばよかった。
2005年9月
7月に完解し、心配だけれど少しほっとする時間が過ぎていた。
でも幸せな日々はそう長くは続かず、9月中旬に母から再発したとの連絡が。
再発……
どれだけつらかったことだろう。
どんな気持ちで私に連絡したのだろう。
入院する前に父と母と鹿児島へ行くことになった
一緒に歩いて、居酒屋でのんで、温泉にも入って、桜島の景色を見た。
微熱で少し熱い母の手をにぎりながら
もう少し母と一緒にいさせてほしいと思った。
そしてハロウィンの日
母は再入院した。
渋谷で会社の人のお誕生日を祝っていた私に
父からの電話が。
母が再入院したこと
そして抗がん治療を行わないと母が決めたことを伝えられた。
母の決断に血の気がひいた。父も落ち込んでいた。
だって
治療を受けないということは
確実にカウントダウンが始まることを意味しているから。
残される家族としては 長生きしてほしいから
つらくても治療を続けてほしかった。
また頑張ってほしかった。
でもそれって残される側のエゴであって
つらい治療を受ける本人としてはもう限界なのだ。
点滴をうちすぎて血管が硬くなり、
輸血の反応で体中に発疹ができて
毛が抜けて、熱にうなされる。
ひとり、無菌室で戦うのは母であって家族ではない。
一緒に戦っているつもりでも、無菌室での生活は
私には想像つかない戦いなのかもしれない。
それに母はまた治ると信じている。
心配する人たちの気持ちが、病気を悪化させるから
心配しないでと言われた。
ゆるぎない母の決断に
私も父も家族も受け入れるしかなかった。